第2部 サッカー郵便物資料の源流 (1924年以前)
3.日本のサッカー絵ハガキ (1920年代)
日本では1873年(明治6年)12月1日に「官製ハガキ」2種類が初めて発売されています。その後、1900年(明治33年)9月1日には、「私製ハガキ」、続いて10月1日には「絵ハガキ」の発売も許されました。さっそく雑誌「今世少年」の付録として私製絵ハガキが登場しています。
1902年(明治35年)6月18日には、日本最初の官製絵ハガキ「万国郵便連合加盟25周年記念」(6種類1組・5銭)が発売され、日露戦争(1904年〜1905年)を題材とするものが加わり、一大絵ハガキブームが起きています。
<第6回 極東選手権競技大会・大阪 (1923年)>
1923年(大正12年)5月21日から6日間、大阪で開催されたこの大会は「東洋(または極東)オリムピック」として親しまれた大会です。同大会に際して、「大阪体育協会」からカラー版の絵ハガキが発売されましたが、これとは別に「第六回極東選手権競技大会當日實況」と銘打った写真絵ハガキ数種類も同大会「協賛会」から発売されました。 サッカー競技の試合結果と試合の模様を伝える写真絵ハガキ2種類を掲げておきます。
開催日 |
大阪市立運動場
(現・大阪市南区八幡屋公園内) |
5月22日 |
中華民国
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3−0 |
フィリピン |
5月23日 |
フィリピン |
2−1 |
日本 |
5月24日 |
中華民国 |
5−1 |
日本 |
優勝した中華民国(中国)代表チームは香港の「南華体育会」(サウスチャイナ・アスレチック・クラブ)所属の選手で構成され、ユニフォームの胸に「南華」の文字が表示されています。
競技は雨模様の続く中で行われましたが、特に23日は豪雨と強風に見舞われました。次の絵ハガキは、観客の様子やユニフォーム姿から、24日の日本と中華民国の試合と思われます。
高額な入場料(特等席12円、一等席8円もした)に加えての悪天候にもかかわらず各競技会場とも満員の盛況だったといいます。
でこぼこのグラウンドは豪雨のせいだけでしょうか?
競技場の一部にはスタンドも設けられていて2万人が収容できたとのことです。
― ちょっと寄り道 ―
ドイツ人捕虜をめぐるサッカー絵ハガキ (1910年代後半)
郵便ハガキの使用量は第1次大戦を機に一挙に増大したといわれます。出征兵士と家族をつなぐ役割を果たしたためです。理由として、郵便料金の安さ、通信文作成時間の短縮、開封不要で検閲が容易なことなどがあげられます。
<イギリスの収容所からの写真絵ハガキ(1916年)>
ドイツ人捕虜が、イギリスのPattishal収容所から差し出した写真入り絵ハガキです。収容所内でサッカーをしてくつろぐ写真が下部に収められています。
<ドイツ人捕虜が日本で制作した絵ハガキ>
第1次世界大戦当時、日本は日英同盟(1902年成立)により連合国側として参戦し、
1915年(大正4年)9月、青島(チンタオ・当時ドイツ領)を占領しました。このとき守備していたドイツ将兵を捕虜(俘虜)として国内各地に収容しました。
彼らは収容所内で盛んにスポーツ活動も行っていますが、日本人とのスポーツ交流の
一つとして、中学校・師範学校・高等師範学校とのサッカーの試合を行い、技術指導をしたケースも伝えられています。
習志野(千葉県)
1919年(大正8年)5月に開催された「SPORTFEST」の絵ハガキとして、サッカー、テニス、走り高跳び、棒高跳びを、それぞれ描いたものがあります。サッカーについては一人のプレイヤーとボールが描かれています。
なお、「ドイツ兵の見た日本」(丸善ブックス・習志野市教育委員会編)に掲載されている収容所の見取り図には、<サッカー場>と記された大きな区画も図示されています。
板東(徳島県)
「LAGERPOSTKARUTE」シリーズものの一つに2人のプレイヤーの攻防を描いた絵入りものがあります。
(参考)
丸亀(香川県)丸亀高等女学校運動会 (1921年〜1924年?)
2011年の女子ワールドカップ、日本優勝を機に話題となった写真絵ハガキ2種類があります。
1914年〜1917年にかけて、丸亀にもドイツ将兵用の収容所が設けられ、同女子校との交流の影響と考えられますが、今後詳細が明らかになることを期待したいと思います。
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