第6部 ワールドカップ、USA開催へ(1986〜1994年)
11.第15回ワールドカップ・USA大会 (1994) D
―スポーツ大国に、サッカーの新市場を求めてー
第6部のまとめ (1)
1.ディエゴ・マラドーナ
◆1980年代の栄光
ワールドカップ・デビューは1982年スペイン大会で21歳。 2次リーグ、対ブラジル戦の終了前に、バチスタを蹴って退場処分を受けて終わりました。
1984年、マラドーナは「FCバルセロナ」からイタリアの「SSCナポリ」へ移籍。
1986年メキシコW杯に25歳でキャプテンとして臨み、アルゼンチンに2度目の優勝もたらし、自身も大会MVPを獲得、プレイヤーとしても世界の頂点を極めました。
この大会では、「神の手ゴール(左手)」と「5人抜きゴール」(左足)を演じ、「マラドーナの大会」に仕立て上げて見せました。その天才的なボール操作技術は、各国代表監督やプレイヤ―までもが、認めるほどの域に達していました。
セリエAでも好調を持続し、創設60年目の「SSCナポリ」を1986-87シーズンの「セリエA」初優勝に導きます。このときからイタリア郵政は、毎年セリエA優勝記念の切手を発行するようになり現在も続けられています。ナポリは、1989-90シーズンに2度目の優勝を果たし、再度切手にとり上げられています。
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セリエA(1986-87)優勝
(1987年5月18日発行・イタリア)
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セリエA(1989-90)優勝
(1990年4月30日発行・イタリア) |
◆1990年・転機
イタリア北部の強豪チームACミラン、インテル・ミラノやユベントスに抗して、南部のナポリに黄金期をもたらすなど「ナポリで英雄」と呼ばれ、幸せな日々を過ごしていたマラドーナでしたが、1990年代に入って転機が訪れます。
29歳。1990年イタリア大会、連覇をねらうアルゼンチンのキャプテンとして出場。準決勝に勝ち進んだアルゼンチンの対戦相手はイタリア、皮肉にも会場はナポリのホーム「サン・パオロ」スタジアムでした。1対1の延長戦の末、PK戦を4-3で制し、イタリアを下しました。
この試合に先立ち、マラドーナはまるでナポリをイタリアから分離独立させる指導者のような演説を行い、アルゼンチンへの応援を求めました。
次の決勝戦の舞台は、首都ローマの「オリンピック・スタジアム」でした。当然のごとくイタリア人による反感は頂点に達し、アルゼンチン国歌が流れたとき、激しいブーイングが起き、マラドーナの目には涙が浮かびました。西ドイツに1対0で敗れ、アルゼンチンのワールドカップ連覇の夢はついえました。
1991年、30歳。イタリアを去るべきときでしたが、契約に縛られ「セリエA」でプレイを続行。3月17日、「ナポリ対バリ」戦の後、実施されたドーピング検査を受け、コカイン使用疑惑が公表されました。その後4月8日の再検査結果をもとに、イタリア・サッカー協会は「15ヵ月間の出場停止処分」を下しました。アルゼンチンに戻り、ブエノスアイレスで「コカイン使用」の容疑で逮捕され、司法当局の監視下1992年6月30までの停止期間を過ごしました。
1993年2月18日、32歳で「アルゼンチン・サッカー協会創設100周年記念試合」で代表に復帰し、ブラジルと戦っています。(結果は1-1の引分け)
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アルゼンチン・サッカー協会創設100周年記念初日カバー
(1993年3月27日発行・同日付特別記念消印付・アルゼンチン) |
◆1994年・復活と終焉
USA大会の南米地域の予選グループAで、アルゼンチンは2位となり、オーストラリアとのプレイオフを強いられました。1993年10月31日と11月17日、の2試合に、マラドーナまで呼び寄せてやっと本大会への切符を手に入れました。
かくして、誰しもが「マラドーナは終わった」と思っていましたが、USA大会のピッチに再びマラドーナは姿を見せました。
1次リーグ・グループDでの初戦、対ギリシャ戦は、4対0の快勝。マラドーナの「左足」も健在で1得点を記録しました。6月25日第2戦のナイジェリアを2対1で勝利し、1次リーグを突破しました。マラドーナはこの試合にフル出場し、驚くべき身体的復活を披露していました。
今回、試合後の薬物検査を受けに行く後ろ姿を写した写真を眺めなおしました。十字にメディカルと書かれたTシャツを着たスタッフの女性と左手をつないでフィールドを後にするマラドーナは、スタンドのアルゼンチン・サポーターに右手を差し出しています。自らのプレイに満足しきっていた表情だったに違いありません。これがワールドカップでのマラドーナの最後の姿でした。
2.巨大化へひた走るFIFA
◆FIFA主催大会の拡充
1974年にFIFA会長に就任して以来、アベランジェは第5部で取り上げましたように、会長就任時の公約を果たすことに注力しました。マーケティングとスポンサーシップを駆使し、豊かになった財政を背景に、FIFA主催の大会をつぎつぎと創設しました。
各大会の優勝トロフィー切手(2004年2月16日発行・ガンビア)でご紹介します。
◇年齢別男子世界選手権
1977年:U-20大会 <第5部9参照>
1985年:U-16(現・U-17)大会 <第6部6参照>
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FIFAワールドユース選手権
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FIFA U-17世界選手権 |
◇フットサル世界選手権
1989年:第1回世界選手権大会を開催。(開催地:オランダ)
補足:フットサルの起源を、ウルグアイの「キリスト教青年会(ACJ=ASOCIACION
CRISTIANA DE JUVENES)」で1930年当時行われていたとする説がもっとも有力です。
その後ブラジルのACM(YMCA)により、ルール統一などが行われ国際化も進められ、1971年に「FIFUSA=国際室内サッカー連盟」が設立されます。1982年同連盟による世界選手権大会がブラジルで開催され、3年おきに開催されていました。
このような状況下で1989年にFIFAが「フットサル選手権」を開催した経緯については、「最新サッカー百科大事典<大修館書店刊>第5部現代のサッカー環境3「フットサル」に詳述されています。
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ACJ創設85周年記念
「
サロン・フットボールはウルグアイで生まれた」と表示。
(1994年11月25日発行・ウルグアイ)
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FIFAフットサル世界選手権 |
◇女子世界選手権
1991年:女子世界選手権(現・女子ワールドカップ)<第6部7参照>
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女子ワールドカップ |
◇大陸間選手権(現・コンフェデレーションズカップ)
はじまりは1992年、サウジアラビアが1992年10月に同国首都リヤドで開催した「キング・ファハド杯インターコンチネル選手権」でした。この大会には次の4ヵ国が招かれました。
1988年 アジアカップ優勝国 サウジアラビア
1991年 コパ・アメリカ優勝国 アルゼンチン
1991年 ゴールドカップ優勝国 USA
1992年 アフリカ・ネーションズカップ優勝国 コートジボワール
初代チャンピオンはアルゼンチンでした。
1995年 第2回大会 サウジアラビア・リヤド開催 デンマーク優勝
1997年 第3回大会 「FIFAコンフェデレーションズカップ(キング・ファハド杯)」と名称を変更し、リヤドで開催。ブラジル優勝
1999年 第4回大会 「FIFAコンフェデレーションズカップ」
メキシコ開催 メキシコ優勝
コンフェデレーションズカップについては、前掲書「最新サッカー大事典」第6部
<FIFAの主要大会>を参考にしました。
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