第1部 初期のサッカー切手
11.オリンピック・ベルリン大会 (1936年)
1932年、第10回オリンピック・ロサンゼルス大会ではサッカー競技は行われませんでした。
第11回ベルリン大会のサッカー競技は、16チームが参加して行われましたが、ワールカップの2度の開催とサッカー界におけるプロ化がイングランド、スコットランド、フランス、ウルグアイ、アルゼンチン、スペインなどで進んでいました。このため、プロ制度のない国々(公式に認めていない国を含む)からはフル代表が、プロ制度のある国々からはアマチュアが参加するという過渡期のサッカー大会となりました。またイングランドは「グレート・ブリテン」(アマチュア)の名のもとに久しぶりに国際サッカーの大会に参加しましたが、2回戦でポーランドに4対5で敗れています。
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オリンピック開催記念切手
1936年5月8日発行(ドイツ) |
オリンピック・スタジアム局特別消印
(ナチスのカギ十字入)
1936年8月1日付(ドイツ) |
開催国ドイツは、1934年のワールドカップで3位を獲得しましたが、この大会の2回戦でノルウェーに敗れ去ってしまい、ドイツ国民を失望させてしまいました。
日本は、1927年第8回極東選手権競技大会(上海で開催)でフィリピンを2対1で下し、国際大会初勝利を記録。1930年同9回大会(東京で開催・同大会記念絵ハガキは連載5で紹介ずみ)で優勝、1932年のロサンゼルス・オリンピック出場をめざしましたが、運悪く同大会ではサッカー競技は行われませんでした。
1936年8月4日、オリンピック・サッカー初出場の日本は、初戦で優勝候補の一つともいわれていたスウェーデンと戦い3対2で逆転勝利をおさめました。世界のサッカーに日本の名を刻み込む快挙でした。
しかし2回戦では第2回ワールドカップで優勝したポッツォ監督が率いるイタリアに0対8と大敗してしまいます。(イタリアのメンバーは若手主体)
決勝で、イタリアが延長戦のすえ、2対1でオーストリアを下し優勝。ポッツォ監督はサッカーの国際大会で2連覇したことになります。またこの大会で起用した若手選手が成長し、結果を出したことは、イタリア・サッカーにとって将来につながる大きな成果でした。
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サッカーの準決勝と決勝が行われたベルリン・オリンピックスタジアム記念絵ハガキ。
(ドイツ) |
― ちょっと寄り道 ―
レニに映画製作を依頼したムッソリーニ
ベルリン・オリンピックの記録映画の監督をつとめたレニ・リーフェンシュタールは超大作『オリンピア(第1部「民族の祭典」、第2部「美の祭典」)』を完成。この作品は現在でもスポーツ映画史に残る傑作として高く評価されていることは広く知られているところです。
ところで、彼女は、自著「回想」(1991年講談社刊)の中で、1936年ローマを訪問しムッソリーニに会った際、「記録映画の製作を依頼された」と述べています。とりわけサッカーに関して熱心なムッソリーニのこと、一瞬「サッカーの映画?」と思ってしまいましたが違いました。イタリアの大事業として干拓中の「ポンティニ沼沢地」の製作依頼だったそうです。ともあれ、彼女は「ベルリン・オリンピック大会の長編映画の製作を理由に断った」とも記しています。 |
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