第1部 初期のサッカー切手
10.バルカン地域のサッカー
<バルカン競技会の切手・ブルガリア (1931・1933年)>
バルカン競技会開催記念
1931年9月18日発行
(ブルガリア) |
ウルグアイ、ハンガリー、オランダについで4番目のサッカー切手発行国になったのはブルガリアです。切手に用いられているのはキリル文字(ロシア文字)で、ローマ字による国名併記は1989年末からです。
バルカン競技会は1931年9月26日から10月4日までブルガリアのソフィアで開催された複合種目(オリンピック方式)の競技大会で
「バルカン・オリンピック」ともよばれています。7種類の記念切手のうち1種がサッカーのプレイヤーを描いています。
バルカン競技会念
1933年1月5日発行
(ブルガリア)
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不思議なことに、1933年1月5日に、再びバルカン競技会の切手7種が発行されています。よく見ると、サッカーの印刷色はブルーに変わっていますが、「1931」の文字はそのままです。1933年に競技大会が開催されたのではないことがわかります。
これは、先の競技大会の大幅赤字(1929年の大恐慌の余波が考えられます)を補てんするため、再度切手を発行したものです。
いつの時代も、いかにして競技大会の財源を確保し黒字化するかは悩みの種、切手はそんなときにも出番がくるようです。
<第5回バルカンサッカー選手権大会
ブルガリア (1935年)>
1935年、第5回バルカンサッカー大会はブルガリアで開催され、ユーゴスラビアが優勝しました。1929年に代表チームが参加するバルカン地域の選手権大会としてはじまり、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、ギリシャが参加しました。
第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会に、ヨーロッパからは僅か4ヵ国しか参加しませんでしたが、このバルカン地域からルーマニアとユーゴスラビアが代表を送ったことを思い出される方も多いでしょう。
ブルガリアは第1次世界大戦で同盟国側として参戦して敗れ、敗戦後一部領土を失いましたが、ボリス3世(在位1928〜1943年)は、親ソ的な世論に背を向けてなおも親ドイツ政策を続けます。特に1935年以降は独裁的な政治を強行しました。
この大会を記念する切手6種類には、ファシスト式敬礼が描かれている大会ポスターと同じ図柄もあり、イタリアのムッソリーニ、ドイツのナチスなどファシズム全盛期の様相が如実に映し出されています。
ファシスト式敬礼と大会優勝杯を描いた
第5回バルカンサッカー選手権大会
ポスター
(ブルガリア)
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第5回バルカンサッカー選手権大会記念
1935年6月14日発行 (ブルガリア) |
― ちょっと寄り道 ― ワールドカップ参加を支援したカロル2世
ジュール・リメは「ルーマニアのカロル2世は、自ら選手一人一人を集めて代表チームを作り上げた」「国王が選んだ選手の何人かは、英国の石油会社の社員で、会社側はモンテビデオ遠征に必要な休暇を許可しなかった。国王自ら経営者に電話をかけた」と記しています。 ≪「ワールドカップの回想」≫
カロル2世が国王についたのは1930年6月8日、ワールドカップの直前ですが、王子の頃からサッカーに多大な関心をよせていました。
ルーマニアは1937年6月8日に「カロル2世在位7周年とルーマニア・スポーツ連盟25周年記念」の切手8種類を発行しました。各種競技のうち狩猟には国王自身の姿が描かれています。
サッカー競技場面の切手左側に表記されているUFSRはルーマニア・スポーツ連盟
(Uniunea
Federatiilor Sportive Romane) の略号です。
この組織のなかにサッカー協会も含まれており、王子も創設に参加したとのことです。
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