第1部 初期のサッカー切手
6.第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会(1930年) A
― ジュール・リメの「素晴らしい旅」 ―
第3代国際サッカー連盟(FIFA)会長ジュール・リメは1930年6月21日(19日とする資料もある)に、フランス南部、ニースに近い港、「ビルフランシェ・シュル・メール」
(VILLEFRANCHE-SUR-MER)からイタリアの『コンテ・ヴェルデ』に乗船し、7月5日にウルグアイのモンテビデオに着きました。
同船には、フランスの他にベルギーそしてルーマニア(ジェノバから乗船)のチームが乗船しており、フランスの選手達の甲板上での集合写真やマストに登るはしご上での写真などが残されています。
リメは自著「ワールドカップの回想」で、この船旅を「素晴らしい旅」と述べています。
しかしながら、1929年のウルグアイ開催が正式決定したにも関わらず、ヨーロッパからは、大会を棄権または参加をためらう国々が相次ぎました。大会がはじまる2カ月前になっても同地域からの参加表明は皆無でした。
リメの母国フランスさえ、彼自身の懸命の説得が功を奏し、なんとかヨーロッパから4カ国が参加することとなり、「最低限の役目は果たした」との思いだったことでしょう。
リメに2週間の船上休息を与えた『コンテ・ヴェルデ』号は、ジェノバを本拠地とするイタリアの船会社「ロイドサバウド」により運航されていました。同社は南米航路に豪華客船『コンテ・ロッソ』(1922年建造)と『コンテ・ヴェルデ』(1923年建造)の2隻を投入、交互に就航していました。
(連載5.第1回ワールドカップ@の図1の裏面は『コンテ・ロッソ』の写真入りです)
<図1> 『コンテ・ヴェルデ』の絵ハガキ (ロイドサバウド社発行)
<図2> 『コンテ・ヴェルデ』号の船内温室植物園・休憩ラウンジ絵ハガキ
(ロイドサバウド社発行)
― ちょっと寄り道 ― 『コンテ・ヴェルデ』号のその後
リメが乗船した『コンテ・ヴェルデ』は、1932年から<トリエステ・上海>航路に就航したことから、日本と意外なつながりを持つこととなります。
1941年12月の日米開戦後、両国の外交官、ビジネスマン、研究者そして学生などを故国へ帰還させることとなり、双方の船はアフリカのロレンソ・マルケス(現モザンビーク、当時ポルトガル領東アフリカ)に向かいました。
日本からは『浅間丸』と、同じ枢軸国のイタリアから『コンテ・ヴェルデ』(当時上海にとどまっていた)を借りて帰還者の輸送に充てました。その折両船は、交換船であることを明示するため、船体中央の両舷には日の丸が描かれました。2隻は、1942年7月23日に、
ロレンソ・マルケスで日本の帰還者を乗せ8月20日、横浜に帰港しています。乗船した方々にとっては忘れがたい船になったことと思います。
1943年9月、イタリアは連合国に無条件降伏し、『コンテ・ヴェルデ』は自沈します。
しかし、日本により引き揚げられ、軍の輸送船として用いられていましたが、1944年に舞鶴沖でアメリカ軍の攻撃を受け、沈められてしまいました。戦後1949年6月に船体は再び引き揚げられ、最終的には1951年に日本で解体されています。
なお、南米航路で僚船だった『コンテ・ロッソ』も1941年5月、イタリア兵士2,500名をトリポリ(当時イタリア領リビア)に輸送中、イギリスの潜水艦の攻撃を受け、沈められています。
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