第6部 ワールドカップ、USA開催へ(1986〜1994年)
6.第14回ワールドカップ・イタリア大会 (1990)B
― 華麗な舞台での、ディフェンシブな戦い ―
◆ 準決勝
◇アルゼンチン対イタリア 延長1−1、 PK4−3
この試合の舞台はナポリ、試合を前にマラドーナは「アズーリがナポリの人々に愛されるなんて、不可解」という挑戦的な演説を披露しました。彼は、大会に合わせてイタリア入りしたアルゼンチンのメナム大統領から、「スポーツ大使」の任命書を手渡されていたそうですから、その役割を果たそうと試みたのでしょうか?
先制点を決めたのは17分、イタリア代表「アズーリ」の「全能の救世主」スキラッチでした。しかし、その後イタリアの攻勢は続かず、逆に67分これまで堅守を誇っていたGKゼンガの判断を誤るプレイで、カニーヒアにヘディングを決められてしまい同点となりました。これはイタリアチームが今大会で喫した初の失点でした。
それ以後両チーム共にゴールを決められず、PK戦にまでもつれ込みました。ドナドーニとセレーナがPKを失敗し、開催国イタリアは決勝を目前にして沈んでしまいました。
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準決勝
<アルゼンチン対イタリア>
対戦試合カバー
(特別記念消印・
1990年7月3日付) |
◇西ドイツ対イングランド 延長1−1、 PK4−3
トリノで行われたこの試合もPK戦となり、スコアまでもう一つの準決勝と同じという展開でした。
60分、イングランドのパーカーによるオウンゴールで西ドイツが先制。80分にリネカーのシュートが決まりましたが、きっかけは、オウンゴールを演じたパーカーが上げたクロスボールでした。延長戦をドラマチックにしたのはゴールのクロスバーでした。イングランドのワドル、西ドイツのブッフバルトのシュートは共にバーに弾かれ試合を決める得点にはなりませんでした。PK戦では、イングランドのピアスとワドルの失敗が響き、悲しみの3位決定戦にまわることとなりました。
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準決勝
<西ドイツ対イングランド>対戦試合カバー
(特別記念消印・
1990年7月4日付) |
◆ 3位決定戦 イタリア対イングランド 2−1
開催国イタリアは、バリの「サン・ニコラ」スタジアムでの熱い観客の声援を受けて、準決勝対アルゼンチン戦での後味悪い敗戦を引きずっているわけにはいきませんでした。試合は後半の半ばを過ぎて、動き出しました。71分ロベルト・バッジオがスキラッチとのパス交換からシュートを決めイタリアが先制します。ガスコインをイエローカード累積で欠くイングランドでしたが、81分、ブラットがヘディングを決め同点に持ち込みました。86分、スキラッチが自らへのファウルで得たPKを決めて試合終了。シチリア出身のスキラッチは、今大会6点目の得点を記録しました。
両チームが表彰台の上で手をつなぎ、ウェーブで観衆に応える光景は、清々しさを感じさせてくれました。
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3位決定戦記念カバー
(特別記念消印・
1990年7月7日印付)
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◆ 決勝 西ドイツ対アルゼンチン 1−0
ローマ、オリンピックスタジアムで行われたこの決勝戦は、前メキシコ大会と決勝と同じ対戦であり、また勝ったチームがブラジルとイタリアについでワールドカップ3回目の栄誉を受ける大事な試合だったので、大いに注目を集めた試合でした。
残念ながら結果は、「史上最も退屈で、つまらない試合」と語りつがれる事となり、イタリア大会全体の評価にも悪影響を与えました。
理由が無いわけではありませんでした。アルゼンチンの4人には出場停止が言いわたされ、その中には、ブラジル戦とイタリア戦で貴重な得点を決めた、金髪の快速プレイヤー、カニーヒアも含まれていました。アルゼンチンは守備的に戦わざるを得なかったわけです。またマラドーナは自らの演説が招いた観客からの怒号にさらされ、試合に集中出来る状況にありませんでした。
退屈な前半が終わり、後半に入ると主審のコセデル(メキシコ国籍、ウルグアイ生まれ)の判断が故意かミスか、怪しくなり、荒れてうんざりする展開が続きました。64分アルゼンチンのモンソンが退場、85分、ペナルティエリアで西ドイツ・フェラーが倒されPKが与えられ、ブレーメがこれを決めました。この微妙な判定はPK後も尾を引き、試合終了間際にアルゼンチンのデソッティまで退場するという悲惨ななかで試合は終了しました。
西ドイツはワールドカップ3回の優勝を果たし、ベッケンバウアーは、同大会で選手と監督両方の優勝経験を持つ2人目となりました。(もう一人はブラジルのマリオ・ザガロ)
試合後、マラドーナの悔し涙を流す顔が世界中に流されました。
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アルゼンチン準優勝
記念カバー
(特別記念印
1990年7月8日付・
アルゼンチン) |
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西ドイツ優勝記念カバー
(特別記念消印
1990年7月7日付・西ドイツ) |
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西ドイツ代表チーム
優勝記念シール
(西ドイツ)
注)郵便料金として使える金額(額面)が表示されている一般的な切手に対して、切手のように周辺にギザギザ(目打)がついているが、金額の表示のないものを「シール」と称して区別 しています。 |
―ちょっと寄り道―
「ジュニアユース(U−17)世界選手権大会のスタート 」
1977年に男子サッカーの年齢別世界選手権「コカコーラ/ワールドユーストーナメント」(現「FIFA/コカコーラ・ワールドユース選手権」)がスタートしたことは、本連載の「第5部9」で述べましたが、この大会の定着と成功に自信を深め、1985年にワールドジュニア選手権(U−16)大会をスタートさせました。
この大会は、1991年の第4回大会からU−17に改められました。正式大会名称は「FIFA/JVCカップU−17世界選手権」となっており、メインスポンサーである「JVC(日本ビクター)」の冠が用いられています。
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開催年 |
開催国 |
優勝 |
準優勝 |
第1回 |
1985年 |
中国 |
ナイジェリア |
西ドイツ |
第2回 |
1987年 |
カナダ |
ソ連 |
ナイジェリア |
第3回 |
1989年 |
スコットランド |
サウジアラビア |
スコットランド |
第4回 |
1991年 |
イタリア |
ガーナ |
スペイン |
第5回 |
1993年 |
日本 |
ナイジェリア |
ガーナ |
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U-16第3回スコットランド大会優勝記念
(1989年12月20日発行・サウジアラビア) |
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U-17第2回大会プログラム表紙
(1993年・日本) |
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