第5部 ワールドカップ変貌の始まり(1974〜1982年)
8.第11回ワールドカップ・アルゼンチン大会 (1978)B
― 次世代スーパースター探しの大会 ―
◆3位決定戦 ブラジル 2対1 イタリア
イタリアは、前半38分にカウジオがゴールを決め先制しましたが、後半ブラジルはネリーニョとジルセウの得点で2-1と逆転し、3位になりました。ブラジルは結局この大会で1度も負けなかったことになります。
両チームのワールドカップ初出場選手にパオロ・ロッシとジ―コがいました。
ロッシは6試合に出場、3得点を記録する活躍でした。4位ながら大会前の暗い見通しを覆し、イタリアサッカーに明るさを取り戻したとして、帰国時に暖かい歓迎を受けました。
一方、ジ―コは先発3試合(2次リーグ対ポーランド戦の僅か7分で交代を含む)、途中出場3試合、PKによる1得点の記録を残しましたが、コウチーニョ監督と対立、3位決定戦には出場機会を与えられず失意の大会になってしまいました。
ブラジルは3位にはなったものの、華麗さを失い、「走るだけのチーム」とブラジル国民から手厳しい評価を受けました。
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大会記念 3種中2種 (1978年3月1日発行 ブラジル) |
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3位決定戦特別記念印(部分)
(1978年6月24日付・
アルゼンチン) |
◆決勝戦 アルゼンチン 3対1 オランダ
両チームの足どりを見ますと、似かよっています。わずかに目立つのが、2次リーグにおけるアルゼンチンの失点0でしょうか。
<オランダ> |
戦績 |
得点 |
失点 |
勝ち点 |
1次リーグ(4組2位) |
2勝1分 |
5
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3 |
5 |
2次リーグ(A組1位) |
2勝1分 |
9 |
4 |
5 |
<アルゼンチン> |
戦績 |
得点 |
失点 |
勝ち点 |
1次リーグ(1組2位) |
2勝1敗 |
4 |
3 |
4 |
2次リーグ(B組1位) |
2勝1分 |
8 |
0 |
5 |
決勝戦は6月25日、リバープレートスタジアムで行われました。アルゼンチンが前半38分に好調ケンペスのゴールで先制。オランダの攻勢をアルゼンチン守備陣が阻む展開が繰り返されました。GKフィジョールの再三にわたる好守も目立ちました。59分にオランダのハッペル監督*が投入した長身ディック・ナニンハが82分にレネー・ファン・デ・ケルクホフからのセンタリングをジャンプしてヘッドで決めて同点にしました。ロスタイムのレンセンブリンクのシュートは左ポストに当たり、ゴールならず、勝負は延長戦に持ち込まれました。
*エルンスト・ハッペル監督(オーストリア)<1925年6月29日〜1992年11月14日・66歳> 1954年のワールドカップで、オーストリア代表のディフェンスの要として活躍し、3位獲得に貢献。引退後「フェイエノールト」(オランダ)や「ハンブルガーSV」の監督を務め、成功をおさめた。1991-92オーストリア代表チーム監督。
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オーストリア サッカー協会100周年記念・
エルンスト・ハッペル
(2004年3月17日発行・
オーストリア) |
延長前半14分、ケンペスが2人のディフェンスを抜き、GKヨングプルートをかわし強引にゴールを決め、再びアルゼンチンがリード(ケンペスはこのゴールで通算6得点、大会得点王を獲得)。延長後半、終了5分前にもベルトーニがケンペスとのパス交換から3点目をあげ、アルゼンチンが3対1で初優勝を成し遂げました。
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ベルトーニによる
3点目
(右はケンペス)
(1979年1月9日発行・
パラグアイ) |
優勝杯を掲げる主将
ダニエル・パサレラ
(1978年12月8日発行・
リベリア) |
アルゼンチンは、9月2日に既発行の小型シートの額面を変更し、<ARGETINA/
CMPEON>と赤で表示し、発行しました。
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アルゼンチン初優勝記念
初日カバー
(優勝記念小型シートは
1978年9月2日発行・
アルゼンチン) |
◆優勝監督・セサル・ルイス・メノッティ
1975年にアルゼンチン代表監督に就任していたメノッティは、1976年3月の政変当時、ソ連(1-0)、ポーランド(2-1)、ハンガリー(0-2)に遠征中でした。自ら「左翼思想家」を標榜する彼でしたが、そのまま代表監督にとどまる道を選びました。
まことに奇妙な組み合わせでしたが、軍事政権の全面的な支援を取り付けたメノッティは自らの考えを貫き、チームには規律を求めました。中心選手に前大会経験者FWマリオ・ケンペスを据え、若手有望選手のDFダニエル・パサレラ(25歳)を主将に抜擢、国民からの非難を受けたMFオズバルド・アルディレスの召集を断行しました。
一方、ディエゴ・マラドーナについては、国内リーグの得点王となるなど力を伸ばしつつあり、また1997年2月27日の対ハンガリー戦で代表デビューしていたにもかかわらず、「彼は若すぎる、精神的にも未熟だ」としてこの大会の代表には選びませんでした。
時の為政者から大会の成功、すなわち優勝を義務付けられた代表チーム監督には、1934年・38年大会のピットリオ・ポッツォがあげられますが、彼同様メノッティもそれらのプレッシャーに安易に妥協することなく、母国サッカーに栄冠と栄光をもたらした監督のひとりと言えます。
「いろいろな大変な出来事や疑惑をいだかせる試合もあったが、アルゼンチンが勝利に価するチームだった」と結ばれることの多いこの大会ですが、メノッティ自身の信念に基づく長期的な展望と計画性のあるチームづくりからもたらされたものでした。
◆余韻
3年あまりが経過し、アルゼンチン大会と次のスペイン大会を記念する切手展がブエノスアイレスで開催されました。これを記念する小型シートも発行されましたが、国民的英雄となったケンペスとGKフィジョールのプレイ姿が収められています。
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記念切手展
<ESPAMER’81>
記念小型シート(部分)
左:大会得点王ケンペスのプレイ右:堅守を誇ったフィジョール
(1981年11月13日発行・
アルゼンチン)
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