第6部 ワールドカップ、USA開催へ(1986〜1994年)
12.第15回ワールドカップ・USA大会 (1994) E
―スポーツ大国に、サッカーの新市場を求めてー
第6部のまとめ (2)
◆ 1986年大会の開催地変更
コロンビアの開催国返上にともなう代替国選びには、メキシコの他にブラジル、USA
が、立候補しましたが、アベランジェ会長の意向でメキシコが選ばれ、その背景にTV放映権がからんでいたといわれます。
この問題を調べようとしていた矢先に『1968年の日本男子サッカー3位決定戦を完全収録したカラーの映像テープが見つかった』というニュースが飛び込んできました。
ちょうどいい機会ですから、メキシコのTV放映の歩みとともに紹介してまいります。
◇ メキシコの民間放送局
1950年民間放送局「テレシステマ・メヒカ―ノ・Telesistema Mexicano=TSM」がスタートしました。NHKによる テレビ放送がはじまったのは1953年2月1日、日本テレビは同年8月21日ですから、メキシコのそれも相当早い時期だったといえます。
◇ TSMのサッカー界進出戦略
メキシコの大物実業家、エミリオ・アスカラ―ガ・ヴィタウレ―タは、1961年にサッカークラブ「アメリカ」を手にいれ、サッカー、バラエティーショウ、連続TVドラマを中心に、スペイン語圏に供給する巨大メディア企業をめざしはじめました。
豊富な資金力により国外からのタレントを加えた「アメリカ」は、1965−66シーズンに、はじめてのタイトルを手に入れます。当初は、試合のTV放映権を得るためのクラブ所有でしたが、次第にメキシコ・サッカー協会そのものに影響力を持てるように動きはじめます。
TSMのトップ、エミリオ・アスカラ―ガは、その役割をギジェルモ・カニェード(Guillermo J. Canedo)に託します。カ二ェードは「サカテペック」クラブのチェアマンを務めたサッカー界の人物でした。
◇ オリンピック・メキシコ大会(1968年)のテレビ映像制作
2013年6月、NHKが、「この大会の男子サッカー3位決定戦の様子を完全収録したカラーの映像テープが「テレビサ」の倉庫で見つかった」、と報じられ、話題になりました。当時NHKはこの試合の一部を放送しただけでしたが、その背景をスポーツプロデューサーの杉山茂さん(元NHK)はつぎのように記しています。
「当時は、現地の中継(実況)をそのまま衛星回線へ送り込むような作業は経費面からできず、いちど市内の放送センターでビデオテープに収め、編集したうえで送信した。中継手法がグローバルになったとはいえ、多くの競技をナマのフルタイムで放送することは、オリンピックでは、まだ考えられなかった。3位をかけたサッカーも完全中継とはいかなかった」<「テレビスポーツ50年」(角川書店・2003年刊)より引用>
IOCがメキシコシティを開催地に決めたのは1963年10月18日のことですが、TSM
1社では全競技と開会式・閉会式、さらに国際放送センターの運営を行うことは難しく、1966年11月にはこの大会の映像制作を、ヨーロッパ放送連合(EBU)、アメリカABC、NHKと地元民放テレビサの4社で分担して行う体制が作り上げられました。
これによりTSMは、開会式・閉会式とサッカー、ボクシング、カヌー競技の制作を担当しています。
なお、今回テープが見つかった場所「テレビサの倉庫」は、1972年にTSMとTelevisionIndependente de Mexicoが合併し「テレビサ・Televisa」となったことによるものです。(以降 「テレビサ」を用います)
◇ 1970年ワールドカップ・メキシコ大会
開催地がメキシコに決定したのは、1964年10月8日、オリンピック東京大会に際して開催されたFIFAの理事会においてでした。
アルゼンチンと争った末、メキシコが開催国に選ばれた背景にも「テレビサ」の後ろだてがあったといわれています。
「(1970年)メキシコにワールドカップを運んできた人」といわれるギジェルモ・カニェドは、メキシコ・サッカー協会会長に昇進していました。(同時に「テレビサ」の有力者でもありました)
これまで述べてきたように、メキシコのTV放送は早々とカラー放送の域に達していたのにくらべ、アルゼンチンは1978年の時点でもまだカラー放送は実験段階で、カラー放送は1980年に開始と大きく後れをとっていました。
この大会の組織委員長を務めたカニェドが大会招致に当たって、「テレビサ」のカラー放送実施計画を活用したことは十分に考えられます。
このときカニェドはもうひとつの役割を果たしています。
ヨーロッパ放送連合(EBU)は、1966年イングランド大会で、29カ国、4億人がテレビ放送(まだカラー放送ではありませんでした)を楽しんだ実績を背景に、「ヨーロッパチームの試合開始時間を、ヨーロッパ地域で見やすい時間に合わせて欲しい」と要望しました。「サッカーとTV」の将来を見通し、これを受け入れたのがカニェドでした。
高地に加えて、高温の時間帯での試合に対する批判は、1986年、1994年のワールドカップ大会でより大きくなりますが、そのはじまりは、1970年のワールドカップ、まで遡ることになります。
テレビサは、この大会の放送に180万ドルを支払い、外国の放送局に権利を売り上々の利益を上げたといわれています。
◇1986年ワールドカップ・メキシコ大会
1970年にメキシコで最初のワールドカップが開催されてから16年が経って、2回目のワールドカップがメキシコに戻ってきました。
そしてカネェドは再びメキシコ大会の組織委員長を務めます。前大会当時はメキシコ・サッカー協会の会長で、FIFAの会長はスタンレー・ラウスでした。
今回は、ジョアン・アベランジェの下でFIFAの副会長という肩書きを得ていました。
二人の出会いは、1970年メキシコワールドカップの招致活動の折だと思われますが、緊密になったのは、1974年のFIFA会長選挙でした。メキシコの所属する「北中米・カリブ サッカー連盟」(CONCACAF)はスタンレー・ラウスを支持していましたが、最終的にカ二ェドは、アベランジェ支援に転換したからです。(会長選については第5部2を参照)
2度目のメキシコワールドカップ開催は、アベランジェにより強引に進められ、*アベランジェが保有する保険会社に、トーナメントの保険額、650万スイスフランを超える資金投入がなされたとされています。<「盗まれたワールドカップ」デヴィッド・ヤロップ著・二宮清純監修・小林令子訳 アーティストハウス社1999年刊 P257>
*筆者注:文脈から、FIFAまたは大会組織委員会からの資金投入と考えられる。
また、テレビサにより運営されたこの大会に、「ヨーロッパ放送連合は3千万ドル以上の放送権料を支払った」<前掲書「盗まれたワールドカップ」P262>とされています。テレビサは、TVメディアを武器にサッカー界進出以来25年がかりで、FIFA組織内部に深く入り込むことに成功したことになります。
◇ アベランジェの続投
1994年6月16日、シカゴで開催されたFIFA総会において、1998年までジョアン・アベランジェがさらに4年、FIFA会長を務めることが決まりました。
※第6部をまとめるにあたって、既に掲げました著書以外に<「南米蹴球紀行」第7章クリス・テイラー著・東本貢司訳・勁文社 2001年刊>を参考にいたしました。
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