第5部 ワールドカップ変貌の始まり(1974〜1982年)
14.第12回ワールドカップ・スペイン大会 (1982)E
― 華麗なるプレイヤーたちの挑戦 ―
第5部のまとめ (その2)
前回に続いて、第5部「ワールドカップ変貌のはじまり(1974〜1982年)」のまとめです。
2.FIFAの財政基盤づくり
前会長スタンレー・ラウス当時の1963年に、「コーチ、審判員、ユース、そして世界中のサッカーの管理の向上」を目的とした『技術委員会』が設立されました。そして1969年7月に、「第1回FIFAコーチング・スクール」が日本で開催され、D.クラマーが「FIFAインストラクター」としてアジア諸国のコーチを指導するなどの活動が実施されています。しかしながら技術委員会設立から10年が経過した時点でもFIFAの振興予算は十分ではありませんでした。
1974年、「サッカーを真に世界のスポーツにする」ことを掲げFIFA会長に就任したジョアン・アベランジェの、公約実現のための資金づくりをたどってみました。
◆ 「コカ・コーラ社」とのスポンサー契約
第5部9で述べたように、サッカーの商品化路線を進めはじめたアベランジェ会長は、1976年5月、FIFAと「コカ・コーラ社」の間にスポンサー契約を締結しました。
この動きと連動して、1977年 「SMPI(モナコ国際プローション)社」が設立され、
FIFAとUEFAが主催するイベントの権利を取得しました。出資者は「アディダス社」のホルスト・ダスラー(51%)と「*ウエストナリー社」のパトリック・ナリ―(49%)でした。これ以降「ウエストナリー社」は
「SMPI社」のもとで、スポンサー契約の販売とマネジメントを行うこととなりました。
*「ウエストナリー社」はパトリック・ナリーとピーター・ウエストにより設立され、
「スポーツ・イベントにスポンサーを持ち込んだ会社」とされています。
「コカ・コーラ社」とのスポンサー契約は、1978年ワールドカップ・アルゼンチン大会を機に新たな展開を見せます。
同社は、(1)試合会場でソフトドリンクを販売する権利の独占、(2)試合会場に広告看板を設置する権利の独占を要望しました。
同社のマーケティングを担当していた「ウエストナリー社」は、「大会組織委員会」と煩雑な交渉を繰り返し、上記の要望を実現しました。このときの経験から次の大会へ向けての環境整備がはじまった、と言われています。
◆ スポンサー契約の拡大
ワールドカップが現在のような商品価値を持つようになったのは、1982年ワールドカップ・スペイン大会からだといわれます。それには、多くのスポンサーには大きな広告効果が期待でき、しかもFIFAがスポンサー料を高く設定できる仕組みづくりが必要でした。
(1)FIFAと組織委員会の役割分担の見直し
ワールドカップの主催者であるFIFAが、広告看板を出す権利を保有し、組織委員会は大会運営だけを担当するように変更されました。(従来、組織委員会はその大会全般を運営し、広告のスポンサーを募る業務も行っていました)
(2)スポンサー契約のパッケージ販売 (「インターサッカー4」)
「ワールドカップ」だけでなく、「ヨーロッパ選手権」「ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ (後のヨーロッパ・チャンピオンズリーグ)」「ヨーロッパ・カップウイナーズ・カップ」の4大会について、4年間をひとつのサイクルとした、計111試合をパッケージとして販売。 なお、このパッケージ価格は1社、2000万スイスフラン(当時の円貨で30億円)
で販売されたとされています。
(3)スポンサー社数限定(1業種8社)による権益保護とメリット供与 FIFAのオフィシャル・スポンサーは
・1業種1社とし、8社*に限定(*1998年大会まで)
・111試合に、4枚1組の広告看板設置の権利を付与
・広告宣伝活動に際し、大会ロゴマークの使用許可を付与
・チケットの優先的割り当て実施。
上記の仕組みづくりは主として「ウエストナリー社」で開発されましたが、同社の手を離れ、1982年に新しく設立されたスポーツマーケティング会社「ISL(International Sports Culture & Leisure Marketing AG/ 本社ルツェルン・スイス)」(出資社:*フルクタ―ナス 51%、電通 49%)がFIFAから「インターサッカー4」を運営・実施するエージェント権を獲得し、その後の運営を行うことになりました。
*「フルクタ―ナス社」は「アディダス」のオーナーホルスト・ダスラーの持ち株会社。後に「スポリス社」、「ISMM社」と社名を変更。
◆ 世界規模放映の実現
1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会を機に、FIFAは放映パートナーとして、地域放送の連合体「国際公営放送連合」(International Television Consortium)を選びました。
これにより、ワールドカップの放映網は世界規模となり、大会自体の注目度を一挙に高めることとなりました。
後に放映権料は高騰し、さまざまな問題を生じますが、この時点でFIFAは放映権料収入そのものを追い求めず、より広い地域で放映されることをねらいました。しかし、結果としてワールドカップのスポンサーの広告価値は高まり、FIFAも上述のスポンサー契約上、優位に立つことが出来たといえます。
以上のような経過ならびに展開を経て、FIFAの財政基盤は整備確立され、その後の新たな事業展開(U-20大会に続くU-16/17大会の創設、女子大会やフットサル大会創設など)へとつながっていきます。第5部の1974〜1982年はFIFAにとって極めて重要な時期であったと考えます。
また、FIFAの最初のスポンサー契約のパートナー「コカ・コーラ社」は現在でもFIFAにとって最も重要な地位にあることはご存じのとおりです。FIFAと同社のつながりを示すものとして、2006年ワールドカップ・ドイツ大会に際し、シンガポール郵政が発行した「コカ・コーラ社」宣伝シ―ル6種類付切手シートを掲げておきます。
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2006年ワールドカップ・西ドイツ大会記念「コカ・コーラ社」宣伝シール付シート
(2006年3月発行・シンガポール)
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