第3部 ワールドカップ・世界的イベントへの道(1950〜1958年)
5.第5回ワールドカップ・スイス大会 (1954年)A
◆優勝候補筆頭・マジック・マジャール(ハンガリー)
大会前に「世界最強」との呼び声が高かったのはハンガリーでした。1950年6月4日のポーランドとの親善試合に5対2で勝ってから国際試合、連戦連勝のまま大会に臨むことになったからです。
◇オリンピック・ヘルシンキ大会優勝 (1952年)
この大会ではルーマニア、イタリア、トルコを下し、準決勝対スウェーデンを6対0、決勝対ユーゴスラビアを2対0で打ち破り、5試合の合計得点20、同失点2で優勝しました。
コチシュ6得点、プスカシュ4得点と、2人で合計得点の半分を挙げています。
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ヘルシンキ大会開催記念
2種中の1種がサッカー
1952年2月15日発行
フィンランド<FINLAND/SUOMI>* |
ヘルシンキ大会記念
4種中の1種・スタジアムにピッチ図
1952年5月26日発行
ハンガリー<MAGYAR>*
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◇ウェンブリーでイングランドに勝利
1953年11月25日、ウェンブリ―・スタジアムで開催された、「FA(イングランド・サッカー協会)創設90年記念」親善試合で、イングランドを6対3で下しました。ロングボールを多用するイングランドに対し、パスをつないだ上での破壊的な攻撃力のもたらした象徴的な勝利でした。これは、イングランドがヨーロッパ大陸チームにウェンブリ―ではじめて敗れた試合でした。
ハンガリーは、この勝利を喜び、同年8月20日発行の切手に試合の日付、スタジアム名(ウェンブリ―)と試合のスコアを追加印刷して、12月3日に発行しました。切手上に対戦スコアを表示した最初の試みでした。サッカーボール状の特別記念印もユニークで、切手同様の各種表示がなされています。
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対イングランド戦
勝利記念カバー
(1953年12月3日・
ハンガリー) |
なお両国は、大会直前の1954年5月23日にブタペストで試合を行い、ハンガリーは再び7対1という圧倒的スコアでイングランドを退け、強さを内外に強く印象付けました。
―ちょっと寄り道―
「ベスト・イレブン」に選ばれた「プスカシュ」と「ボジク」
「マジック・マジャール」は、主将のフェレンツ・プスカシュ、サンドロ・コチシュ、ナンドロ・ヒデクチ、ヨーゼフ・ボジク選手などを中心に構成されていました。
中米ニカラグアは「世界のスーパースター」と銘打った切手12種類を1970年に発行しました。これはイギリスのスポーツ専門誌「ワールドスポーツ」が、35ヵ国、80人のサッカー記者の投票により選んだポジション別11人の選手を1人ずつ切手にしたものです。ハンガリーからは、プスカシュとボジクが選ばれています。
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初日カバー
(ボジクとプスカシュの切手付)
(1970年5月11日発行・ニカラグア)
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ボジク選手の切手の裏面 |
プスカシュ選手の切手の裏面 |
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<切手の国名表示>
切手上の国名表示についてご意見をいただきましたので、あまりなじみのない表記について、本稿から下記のように、< >で当時の表示を記載するようにしました。
フィンランド<FINLAND/SUOMI>、ハンガリー<MAGYAR>
ハンガリーの切手に記された<MAGYAR>については、第1部2の「ちょっと寄り道」でふれましたのでご参照ください。
ハンガリー同様、フィンランドの民族の祖先も、古い時代に中央アジアから移り住んだといわれています。その後14世紀中期ころから19世紀はじめまでスウェーデンの支配下にありました。「フィンランド」の呼び方はスウェーデン語で、フィンランド語では「スオミ・SUOMI」となります。2つの公用語が使われていますので、切手上にもFINLANDとSUOMIが併記されています。
(参考文献・『世界・切手国めぐり』斉藤毅著・日本郵趣出版刊)
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