第5部 ワールドカップ変貌の始まり(1974〜1982年)
9.第12回ワールドカップ・スペイン大会 (1982) @
― 華麗なるプレイヤーたちの挑戦 ―
◆公約の実現とFIFA振興戦略の展開
本大会出場枠数を増やすとともに、若い世代の世界選手権大会をスタートさせることは、1974年にアベランジェが会長選に立候補した際に掲げた公約の柱でした。
また就任後の1975年には、世界中にサッカーをひろめる「振興プログラム」を作成し、担当部署のディレクターとしてブラッターを雇用しました。
これらの実現には、当然、巨額の資金が必要でしたが、FIFAには4年に1度のワールドカップを含むFIFAが主催する国際大会による収入しかありませんでした。
◆「コカ・コーラ社」とのスポンサーシップ契約
1976年5月13日ロンドンで、FIFAとコカ・コーラ社との間に取り交わされた契約により、500万ドルの資金が提供され、上述の「振興プログラム」と「コカ・コーラ・ワールドユース トーナメント」の創設に大部分が充てられました。
このパートナーシップ契約を仲介したのは、「アディダス」の創業者アドルフ・ダスラーの息子ホルスト・ダスラー(以下ダスラー)と、スポーツと広告を結びつけようとしていたウエスト・ナリー社のパトリック・ナリ―だといわれます。
◆「コカ・コーラ/ワールドユース・トーナメント」大会の実現
この「コカ・コーラ」の名前を冠した大会の初期の結果はつぎのとおりです。
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開催年 |
開催国 |
優勝 |
準優勝 |
第1回 |
1977年 |
チュニジア |
ソ連 |
メキシコ |
第2回 |
1979年 |
日本 |
アルゼンチン |
ソ連 |
第3回* |
1981年 |
オーストラリア |
西ドイツ |
カタール |
第4回* |
1983年 |
メキシコ |
ブラジル |
アルゼンチン |
*大会名を「ワールドユース・チャンピオンシップ」に変更 |
20歳以下の選手達を対象とする最初の大会は、1977年にチュニジアで開催されましたが、当然ながら大会自体の認知度も低く、盛り上がりに欠けました。
1979年8月25日から9月7日にかけて、日本で開催された第2回大会は、将来の世界のサッカーを担う世代の大会として、その価値をひろく世界に知らしめることとなりました。
1978年アルゼンチン大会の優勝監督、ルイス・メノッティに率いられたアルゼンチンは、ディエゴ・マラドーナとラモン・ディアスの活躍により優勝。マラドーナは「ゴールデンボール賞」(MVP)を、ディアスも
「ゴールデンブーツ賞」(得点王)をそれぞれ受賞しました。
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第2回
「ワールドユース・トーナメント」
開催記念特別記念消印
(1979年8月25日付・新宿北局)
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第3回大会から大会の名称が「ワールドユース・チャンピオンシップ(選手権)」に変更されました。下記メキシコ大会の切手に第2回大会と表示されているのは新しい大会名称になってから2回目のためです。
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第4回 「ワールドユース・
チャンピオンシップ」
開催記念切手
3種中の1種
(1983年6月19日発行・メキシコ) |
第5回 「ワールドユース・チャンピオンシップ」 開催記念切手
(1985年8月24日発行・ソ連) |
◆
本大会出場枠の拡大の実現
スペインが第12回ワールドカップの開催国に決定したのも、1966年7月6日にロンドンで開かれたFIFA総会(前会長スタンレー・ラウス)においてでした。スペインは、1939年以来続いたフランコ独裁体制が、1975年11月フランコの死により、ファン・カルロス1世が即位、王制が復活して民主化がはじまって間もない時期でした。
大会開催については問題はありませんでしたが、アベランジェ会長には、本大会出場枠を拡大するという宿題が残されていました。 すでに1978年アルゼンチン大会の際のFIFA総会(ブエノスアイレス)で「1982年大会以降の参加国数を20または24に増やす」ことが決められました。アベランジェ会長は24枠拡大を望んでおり、スペインはこれを受け入れ、翌1979年5月17日のFIFA総会(チューリッヒ)で、「本大会出場国数24」が決定されました。
一挙に拡大した大会の実行には、新たな資金のねん出が必要となりました。すでにコカ・コーラ社は前アルゼンチン大会からワールドカップのスポンサー企業になっていましたが、新たにグロバール市場をねらう10社を超えるスポンサー(日本の企業4社を含む)が加わりました。
―ちょっと寄り道―
「郵趣品にも潜むスポンサー名」
ワールドカップの公式スポンサーに与えられた権利のひとつに、試合会場に広告看板の設置があります。
ピッチ周辺の場景の変化について、後藤健生さんは「1974年の西ドイツ・ワールドカップの写真を見ると、広告看板もタッチラインからかなり距離を置いて遠慮がちに立てられているし、企業名を見ても、西ドイツ国内のローカルな企業の広告が多い。だが、それもアベランジェの時代になって変わっていく。(中略)広告主の多くはアメリカや日本うまれの多国籍企業だった」と記しています。(「ワールドカップは誰のものか」(文春文庫754・2010年刊)
サッカーの郵便物資料(郵趣品)も次第に写真を使用することが増えた結果、公式スポンサー企業の広告が潜むことが多くなりました。
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スペイン大会
マッチデイ・カバー
<イングランド対スペインの試合風景>
(1982年7月5日
特別記念印・スペイン) |
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スペイン大会記念
小型シートのタブ(シール)
4種中の1種
ロッシ(イタリア)とオスカール
(ブラジル)
(1982年10月20発行・
パラグアイ) |
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