―ちょっと寄り道―
「1970年ワールドカップ後のペレ」
◇ ブラジル代表チーム引退
アベランジェは、1971年にFIFA会長選出馬を決めて以来、アフリカ諸国を積極的に訪問し始めましたが、ペレを同行させています。「サッカーの神様」と崇め、歓迎するアフリカの人々の熱気をアベランジェは活用したと言われます。
ペレは、1971年7月18にマラカナン・スタジアムで行われた「ユーゴスラビア」との親善試合(2対2の引分け)を最後に、代表チームから引退しました。
引退の理由として、「1971年にわたしのポジションを空け、若い選手が1974年に備えて必要な経験を積む機会を与えることにした」と述べていますが、もうひとつ、「当時のブラジル代表チームは、軍部の影響力が強化されつつあった。世界に好ましいイメージを与えるために自分が利用されていることを理解した結果だった」(前掲書「盗まれたワールドカップ」)とも述べています。
当時、ブラジル・スポーツ連合(会長はアベランジェ)は、ブラジル独立150周年記念行事のひとつとして、1972年6月に「ミニ・ワールドカップ」を開催しました。ペレはこの大会での代表復帰要請をきっぱりと断り、「代表チーム」の一員としてプレイすることはありませんでした。
◇「サントス」の世界ツアー
その後も引退説や代表復帰説が報じられては消えていきましたが、「サントス」でのプレイは続け、国内リーグ戦で戦うほかに、同チームの世界各地での転戦に参加しています。当時の年間試合数を聞かれて、「約百ゲーム。そう、百はあったはずだ」と答えています。
1972年5月26日、国立競技場で開催された「サントス対日本代表」もそのひとつでした。このとき「サントス」は、アジア、オーストラリア、カナダとUSAの各地を50日間にわたり訪問し、7月11日に帰国しています。
親善試合だけではありません、ペプシコーラからの申し出により、主として「サントス」の海外遠征時に、世界の子どもたちにサッカーを教えるプロジェクトにも参画しました。ペレは世界一忙しい人のひとりだったといえます。
◇「サントス」を訪れ、ペレに会った野村六彦選手
ワールドカップ西ドイツ大会直後の1974年7月11日から40日間、日立製作所はブラジル「パルメイラス」の合宿に、野村六彦(コーチ兼任)、松永章、河野和久の3選手を派遣しました。(この年、JSL前期は6月2日に終了、後期は10月10に再開されています)
「パルメイラス」には、1974年のワールドカップ・ブラジル代表となったGKレオン、ぺレイラ、レイビ―ニャらが所属しており、帰国早々の彼らと一緒にトレーニングをし、技術指導を受けました。
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パルメイラス3選手
(レイビ―ニャ、ルイス・ぺレイラ、レオン)
と日立製作所3選手(野村、河野、松永) |
この滞在中、野村選手は、「サントス」クラブを訪ね、たまたま一人で練習していたペレに会うことが出来ました。上述のとおり、海外遠征のためブラジルを離れることも多かったペレだけに、サントスのホームでのこの出会いは幸運としか思えませんでした。
二人は共に1940年生まれ、ペレのドリブル、パス、シュートなどのボールテクニックは野村選手の長年のあこがれだったといいます。
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ペレと野村選手
(サントス「ウルバノ・カルディラ」スタジアムにて。1974年7月31日撮影。
なお、サインは後年ペレ来日時のもの)
<上記2枚の画像提供:野村六彦さん> |
それからわずか2ヵ月後、ペレの「サントス」での最後の試合は、1974年10月2日、サントス市のウルバノ・カルディラスタジアムでのサンパウロ州のリーグ「ポンテ・プレタ」戦でした。
9月28日の対「コリンチャンス」で足を負傷していたペレは、この試合前半20分過ぎにプレイを止め、ひざまづいた後、両手を挙げて詰めかけた3万人あまりの観衆に別れの挨拶をしました。
◇「ニューヨーク・コスモス」への移籍
1975年「ニューヨーク・コスモス」へ移籍金900万ドルで移籍し、1977年10月1日にはジャイアンツ・スタジアムで「コスモス対サントス」の引退試合が行われました。
これに先立ち、「ペレ引退試合シリーズ」として来日、9月14日と16日に「コスモス対日本代表」(釜本選手の日本代表の引退試合)の試合が行われています。 |