第3部 ワールドカップ・世界的イベントへの道(1950〜1958年)
6.第5回ワールドカップ・スイス大会 (1954年)B
◆新たな試合方式
スイス・ワールドカップの本大会では、新たなそして変則的な試合方式が採用されました。
1次リーグは、出場16チームをシード8チームと非シード8チームに分け、4グループに抽選で2チームずつ配分するという新たなグループ分けが採用されました。
組 |
シード |
非シード |
第1組 |
ブラジル |
フランス |
ユーゴスラビア |
メキシコ |
第2組 |
ハンガリー |
トルコ |
西ドイツ |
韓国 |
第3組 |
ウルグアイ |
オーストリア |
チェコスロバキア |
スコットランド |
第4組 |
イングランド |
イタリア |
スイス |
ベルギー |
試合は総当たりではなく、非シード2ヵ国がシード2ヵ国に挑む方式でした。また、グループ内2位決定戦(2チームが1勝1敗の場合)が2試合(西ドイツ対トルコ、スイス対イタリア)行われました。
アジアからの出場枠1を日本(ともにワールドカップ初挑戦)と争い出場した韓国でしたが、ハンガリーに0対9、トルコにも0対7と、2戦とも大敗に終わりました。
1次リーグを勝ち抜いた8チームによる準々決勝以降の組み合わせも、各グループ1位4チーム(ブラジル、ハンガリー、ウルグアイ、イングランド)と、各グループ2位4チーム(ユーゴスラビア、西ドイツ、オーストリア、スイス)に分かれて、それぞれ勝ち抜き戦を行い、1位グループトップ(ハンガリー)と2位グループトップ(西ドイツ)で決勝戦を行うという変則的なものでした。 ※( )内は実際の結果。
◆開幕戦 「ユーゴスラビア対フランス」
大会はローザンヌでの、1次リーグ・第1グループ、ユーゴスラビア対フランスで開幕し、非シード国のユーゴスラビアが、14分にミルティノビッチが決めた1点を守りきり、シード国フランスを破りました。
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大会専用封筒、開幕戦用特別記念印付
(1954年6月16日付・ローザンヌ局
スイス<HELVETIA>)
(封筒には大会記念ロゴマークが印刷されており、ここにもFIFA創設50周年
の大会であることがうたわれている) |
◆西ドイツ代表チームのメンバー
大戦後の1948年にスタートした西ドイツサッカー選手権において、「1FCカイザースラウテルン」は、1948年準優勝、1951年と1953年優勝と好成績を続けており、「赤い悪魔」と呼ばれていました。
1936年から西ドイツ代表チームの監督を務めていたゼップ・ヘルベルガ―は同チームからフリッツ・ヴァルター、オットマール・ヴァルター、エッケル、リーブリッヒ、コールマイヤーなどを選んで第5回スイス・ワールドカップに臨んでいます。
特に同クラブの主将のフリッツ・ヴァルターは当時34歳、戦前からヘルベルガーが育て上げた信頼厚い選手で、監督の意図を理解し、体現できる頭脳を備えていました。
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1953年 西ドイツサッカー選手権決勝記念カード
1.FCカイザースラウテルン 対 VfB シュツットガルト <4対1>
1953年6月21日、「オリンピア・スタジアム」(ベルリン) |
◆準々決勝・準決勝
1位でグループリーグを通過したハンガリーには、前大会のタイトルを逃したブラジルが待ち受けていました。この準々決勝の日、ベルンは冷たい雨でした。「ベルンの死闘」はピッチ上だけでなく試合後のロッカールームにおいても繰り広げられたと伝えられています。
続く準決勝ウルグアイとの戦いも、ハンガリーは2点を先制するものの逃げ切れず、延長戦に持ち込まれました。幸いこの大会の得点王コチシュの2得点で振り切り、決勝に勝ち進むことができました。
準々決勝と準決勝にプスカシュは出場出来ませんでした。1次リーグの西ドイツ戦で巨漢のヴェルナー・リープリッヒの荒っぽいタックルを受け、くるぶしを負傷したためです。
一方、2位でグループリーグを突破した西ドイツは準々決勝でユーゴスラビアを2対0、準決勝では、オーストリアに6対1と快勝し、決勝へと駒を進めました。
<切手の国名表示>
スイス<HELVETIA>
スイスは多民族国家(ドイツ系・フランス系・イタリア系とロマンシュ系)であることから、多言語国家でもあります。公用語はドイツ語・フランス語・イタリア語となっています。
HELVETIA(ヘルベティア)はローマ時代の同地域の古名であり、これを切手の国名表記に用いています。
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