第1部 初期のサッカー切手
12.第3回ワールドカップ・フランス大会 (1938年)@
― 大会直前の親善試合・ドイツ対イングランド ―
1938年3月12日、ドイツ軍はオーストリアに進駐、4月10日の形式的な併合を確認する国民投票を経てドイツに併合されてしまいます。すでにヨーロッパ地区予選を突破していたオーストリアは本大会への参加を取りやめざるを得ませんでした。
大会予選には37ヵ国がエントリーしましたが実際に予選に参加したのは25ヵ国にとどまりました。スペインは内乱の真っただ中であり、日本も日中戦争激化のため参加を取りやめ、先のベルリン・オリンピックでの成果を次のステップへつなぐ機会を逸してしまいました。
大会直前の5月14日、ドイツはイングランドチーム(当時FIFA未加盟)とベルリンで親善試合を行い3対6で敗れました。この試合で、イングランドのスタンリー・マシューズ(1934年初代表入り)が得点1を記録しています。また、イングランド・サッカー協会(FA)はイギリス大使の意向(当時、イギリスは反共のナチス党に妥協する宥和政策をとっていた)を受け入れ、選手達にナチス式敬礼を指示しました。ただし、「この試合には、併合したオーストリアの選手は起用しない」という条件が付けられていたとのことで、絵ハガキにも登場していません。
国際親善試合
ドイツ対イングランド記念絵ハガキ
(ドイツ・イレブンの顔写真入り)
(ドイツ発行) |
同試合特別記念消印
(1938年5月14日付) |
― ちょっと寄り道 ― その後のオーストリア代表チームメンバー
ドイツに併合されたチームメンバーのうちハーネマン(FW)、ラフトル(GK)ら数人がドイツ代表として第3回フランス・ワールドカップに参加しました。
しかし、1934年のイタリア・ワールドカップでオーストリアを準決勝に導いた主力のマティアス・シンデラー(FW)は、ユダヤ人でもあったことなどからドイツチームに加わらず、翌年1月23日、将来に悲観して自宅でガス自殺してしまいました。
2004年、オーストリア・サッカー協会設立100周年の記念切手10種類が発行され、9人のプレイヤーがとりあげられていますが、併合当時のメンバーから選ばれたのはシンデラーただ一人でした。
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Mathias Sindelarの略歴
・1903年生まれ
・1926年9月28日
対チェコスロバキア戦で
代表デビュー
・代表出場43試合、27得点
・1934年ワールドカップ出場。4位
・1939年1月23日没。35歳
サッカー協会設立100周年記念
2004年3月18日発行
(オーストリア) |
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