第6部 ワールドカップ、USA開催へ(1986〜1994年)
5.第14回ワールドカップ・イタリア大会 (1990)A
― 華麗な舞台での、ディフェンシブな戦い ―
◆ 本大会
◇ 華麗な12のスタジアム
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オリンピック
(ローマ) |
コムナーレ
(フィレンツェ) |
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サン・パオロ
(ナポリ)
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サン・ニコラ
(バリ) |
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デレ・アルピ
(トリノ) |
ルイジ・フェラリス
(ジェノバ) |
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レナト・ダラーラ
(ボローニャ) |
ジュゼッペ・メアッツァ
(ミラノ) |
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ペンティゴティ
(ベローナ) |
フリウリ
(ウディーネ) |
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サンテリア
(カリアリ) |
ラ・ファボリータ
(パレルモ) |
大会開催記念 (1990年3月24日発行・イタリア) |
◇ 1次リーグ組分けと順位 (太字国名は決勝ラウンド進出国)
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1位 |
2位 |
3位 |
4位 |
<A> |
イタリア |
チェコスロバキア |
オーストリア |
USA |
<B> |
カメルーン |
ルーマニア |
アルゼンチン |
ソ連 |
<C> |
ブラジル |
コスタリカ |
スコットランド |
スウェーデン |
<D> |
西ドイツ |
ユーゴスラビア |
コロンビア |
UAE |
<E> |
スペイン |
ベルギー |
ウルグアイ |
韓 国 |
<F> |
イングランド |
アイルランド |
オランダ |
エジプト |
◆ 決勝ラウンド 1回戦
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本大会参加記念
(1990年5月12日発行・ブラジル) |
◇アルゼンチン対ブラジル
1−0
ドゥンガ、ミュ―レル、カレッカを揃えたブラジルが優勢に試合を進めていましたが、80分、マラドーナからのパスをカニ―ジャが決め、アルゼンチンがワールドカップで初めてブラジルを下した試合となりました。連続出場を継続中のブラジルでしたが、ベスト16という不本意な結果に終わりました。(1974〜1990年の5大会では、1978年の3位が最高)。
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幻の優勝記念切手
(同大会記念切手アルバムより) |
◇西ドイツ対オランダ 2−1
DFライカールト、MFフリット、FWファンバステンなど、豪華な陣容で臨んだオランダでしたが、1974年大会決勝と同じスコアで西ドイツに屈し、ベスト16で姿を消しました。今大会にかける期待は大きかったのでしょう、優勝記念切手が準備されましたが、1974年大会同様、またしても不発行となってしいました。
◆ 準々決勝
◇アルゼンチン対ユーゴスラビア 延長0−0 PK 3−2
30分すぎ、ユーゴスラビアのサバナノビッチが、マラドーナの突進を阻もうとして掴んで2枚目のイエローカードによる退場処分を受けました。しかし、ユーゴスラビアは10人になってもくじけませんでした。結局試合は延長120分を終えても無得点のまま、PK戦でやっと決着しました。両チーム最初のキッカー、ストイコビッチはバーに弾かれ、マラドーナもGKに止められましたが、PK戦を制したのはアルゼンチンでした。
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大会参加記念初日カバー
(1990年4月16日発行・
ユーゴスラビア) |
この大会のユーゴスラビアは、ストイコビッチ(セルビア人)、ロベルト・プロシネツキ(クロアチア人)、デヤン・サビチェビッチ(モンテネグロ人)、ハジベギッチ(ムスリム人)などで構成されていましたが、イビチャ・オシム監督のもとで一丸となって戦い、ベスト8に輝きました。
これは、社会主義体制の下で「6つの共和国と5つの民族」が束ねられていた ユーゴスラビア連邦国家代表チームのワールドカップにおける最後の姿でした。
イタリア大会がはじまる1ヵ月前の1990年5月8日、クロアチアで総選挙が行われ、民族主義を掲げるクロアチア民主同盟が圧勝、同党党首フラーニョ・ツジマンが大統領に就任しました。
1週間後の5月13日、クロアチアの首都ザグレブ「ナショナル<マクシミル>スタジアム」でのリーグ最終戦「ディナモ・ザグレブ対レッド・スター」で事件が起きました。高揚したクロアチアの「ディナモ・ザグレブ」サポーターが客席に火を放ち、グラウンドになだれ込み、警備のセルビア人警官と衝突し、暴徒化したのです。
このような民族主義の高まりは、各地でさまざまな事態を引き起こし、ついに、1991年6月25日、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビア連邦を離脱し、独立を宣言し、同連邦は崩壊しはじめました。その後、連邦政府の武力行使で内戦化し、泥沼の「ユーゴ紛争」へと拡大していきました。
◇イタリア対アイルランド 1−0
ジャッキー・チャールトン監督に率いられた初出場のアイルランドは、1次リーグFグループでの3試合をすべて引分け、オランダと順位決定の抽選の末、同グループ2位となりました。第2ラウンド1回戦、ルーマニアとは延長(0−0)後のPK戦を5−4とし、ベスト8まで勝ち残る健闘ぶりでした。
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DF
デビッド・
オレアリー |
GK
パット・ボナー |
MF
ポール・マグラー |
「アイルランドのサッカー・ヒーロー」より
(2002年5月14日発行・アイルランド) |
◇イングランド対カメルーン 3−2(延長)
開幕試合、カメルーンは前大会優勝のアルゼンチンをオマン・ビイクの鮮やかなゴールで1対0と勝利し、世界を驚かせました。また38歳のロジェ・ミラは「カメルーン旋風」
の中心選手として4得点を記録、同国をアフリカ勢初のベスト8に導きました。
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ベスト8進出記念・ロジェ・ミラと進出の記録
(1990年7月4日発行・
カメルーン) |
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大会参加記念切手 |
◇西ドイツ対チェコスロバキア 1−0
チェコスロバキアは久しぶりに準々決勝まで到達し、対等の試合展開でしたが、24分にPKを与え失点、最後までこれを跳ね返すことが出来ずに終わりました。
同国は1990年5月8日、ゴール前の激しい攻防を描く記念切手と同切手10枚を収める切手帳3種類(チェコスロバキア・サッカー協会、チェコ・サッカー協会、スロバキア・サッカー協会の各紋章入り)を発行しました。
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切手帳表紙
(チェコスロバキア・
サッカー協会) |
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切手帳表紙
(チェコ・サッカー協会) |
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切手帳表紙
(スロバキア・サッカー協会) |
チェコスロバキアでは、ソ連のペレストロイカ開始を受けて、1989年10月以降自由化運動が急速に高まり、12月の共産党独裁放棄による新政権が成立、無血の民主革命が勝利、「ビロード革命」と名付けられました。1990年3月の連邦会議で新しい国名を、「チェコとスロバキア連邦共和国」とすることが決定されました。上述の3種類の切手帳発行は、当時の状況を反映したものと考えています。
なお、その後スロバキア共和国側が連邦解体を希望、双方協議を重ねた末、1993年1月1日に二つの国家に分離・独立、「ビロード離婚」と称されました。
しかしながら、1994年USA大会のヨーロッパ地域予選グループ4の試合は既に1992年4月からはじまっていましたので、「チェコスロバキア」として1993年10月27日の同国最終戦まで戦いましたが、本大会までは進めませんでした。
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