―ちょっと寄り道―
インド棄権の背景にあるもの
1950年1月、イギリスの自治領から、共和国として独立したばかりのインドは、アジア地域予選をフィリピンとビルマが棄権したことにより、本大会の出場資格を獲得、第3グループに組分けされる予定でした。
しかしながら、同国は最終的に参加を取りやめました。1950年2月15日、大会組織委員会が、プレイヤーのシューズ着用義務規定を採択したためです。インドではまだ、“はだし”でプレイする選手がいたことから棄権せざるを得なかったのです。
後年、インドが2回にわたって発行した切手でその背景をさぐってみました。
17世紀初頭よりフランスとイギリスがインド進出を図りはじめ、1765年、イギリスは「東インド会社」を設立、ベンガルなど3州を支配します。1858年、「インド・ムガル帝国」を滅ぼし直轄領化、1877年に成立した「インド帝国」皇帝にヴィクトリア女王が就任したことにより、イギリスによるインドの植民地化が確立しました。 1889(明治22)年、ベンガル州カルカッタ(現コルカタ)にサッカークラブ「モフン・バガン(Mohun Bagan)」が設立されました。
1905年、インド総督によるベンガル分割実施を機に反英機運が生じ、全国的に拡大、インドの民族運動にまで発展していきます。
そのような状況下、1911年のインド全国選手権「FAI (全インドサッカー連盟) シールド」の決勝で、「モフン・バガン」が英国人チーム
「ヨークシャー連隊」を2対1で下し、優勝する出来ごとが起きました。
この勝利は、西ベンガル州のサッカー競技を盛んにしたばかりではなく、民族運動の象徴として扱われはじめました。
1989年、同クラブの設立100周年記念切手が発行されました。切手には、シューズをはいたプレイヤーと“はだし”のプレイヤーの攻防が描かれています。上述の決勝戦をほうふつさせる図柄だと考えます。
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「モフン・バガン」
サッカー
クラブ創立100周年記念
初日カバー
(1989年9月23日発行
インド) |
※「モフン・ガバン」チームについては、「サッカーの世紀」−サッカーに触発 された独立運動―(1995年刊・文藝春秋社)で後藤健生さんが詳述されて います。
インド独立運動のさ中、現バングラデシュの小さな村に生まれ、民衆の見守るなかで、プレイしたのがゴスタ・ベハリ・パウル(Gosta Behari Paul・1896〜1976年)です。
パウル少年がはじめてサッカーの試合を見たのは1907年、北カルカッタ公園でのことでした。その後1913年、16歳で「モフン・バガン」の一員として初出場、以来1935年までの22年間同クラブに在籍、1921年から26年まではチーム・キャプテンを務めました。かれも“はだし”でプレイしたひとりだったと伝えられています。
彼は、「当時インド人は、生涯にわたるあらゆる場面で自尊心を傷つけられ、侮辱されていた。唯一、サッカーのピッチの上だけが全精力を傾けてイギリス人と戦い続けられる場所だった。そこでは、彼らを恐れることはなかった。逆に彼らこそが私を恐れる場所だった」との言葉を残しています。(切手発行の趣意書より)
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「GOSTHA PAUL」記念切手
(1998年8月20日発行・インド)
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