第6部 ワールドカップ、USA開催へ(1986〜1994年)
4.第14回ワールドカップ・イタリア大会 (1990)@
― 華麗な舞台での、ディフェンシブな戦い ―
◆ 開催地決定
第1回大会から60年目の節目にあたる、1990の大会開催地にイタリアが決定したのは、1984年5月18日、ロサンゼルス・オリンピックに際し開かれていたFIFA総会においてでした。最終候補は、イタリアとソ連に絞られていましたが、その他に、ギリシャ、ユーゴスラビア、イングランド、フランス、西ドイツ各国が開催を希望していました。
イタリアでの開催を選択したことは、その後の東西冷戦構造の終結にともなう東側諸国の混乱を考えると、悪い選択ではなかったと考えます。
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大会開催記念・大会マスコット
(Blatt作)名前"チャオ“はサッカー
くじ販売時の投票による。
(1988年5月16日発行・イタリア) |
大会開催記念・大会モニュメント
(Mario Ceroli作)とピッチ図
(1989年12月9日発行・イタリア) |
◆ 地域予選
開催国イタリアと前大会優勝国アルゼンチンが、従来どおり、地域予選を免除されました。一方、メキシコは、1989年の第7回ワールドユース選手権予選において、選手の年齢詐称を理由に、この大会への出場資格を奪われました。また組み合わせ決定の後、アフリカ地域のレソト、ルワンダ、トーゴ、とアジア地域のバーレーン、南イエーメン、インドが棄権し103の国・地域が予選を行いました。
1989年9月6日、イビチャ・オシム監督率いるユーゴスラビアが、ヨーロッパ地域予選グループ5でスコットランドを3対1で下し、予選参加チームのなかで、最も早く本大会進出を決めました。
新監督プラティニのフランス、4大会連続本大会出場のポーランドはともに地域予選で敗退しています。
日本はアジア地域1次予選(グループ6)で敗退し、最終予選にも進めず、また一歩後退しています。
◆ 本大会進出国
ヨーロッパ (14) |
イタリア(開催国)(12)、西ドイツ(10)、
イングランド(9)、スウェーデン(8)、
スペイン(8)、チェコスロバキア(8)、
ベルギー(8)、ユーゴスラビア(8)、
ソ連(7)、スコットランド(7)、
オーストリア(6)、オランダ(5)、
ルーマニア (5)、アイルランド(初) |
南米 (4) |
ブラジル(14)、
アルゼンチン(前大会優勝国(10)、
ウルグアイ(9) 、 コロンビア(2)
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北中米 (2)
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USA(4)、コスタリカ(初)
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アフリカ(2) |
エジプト(2)、カメルーン(2) |
アジア・オセアニア(2) |
韓国(3)、UAE(初) |
注)太字国名は大会記念切手発行国 |
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本大会初出場記念小型シート
(世界地図上に本大会出場国を線で結ぶ)
(1990年4月8日発行・UAE)
*他に切手4種も同時発行
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―ちょっと寄り道―
「東欧革命とイタリア大会」
1986年、ソ連のペレストロイカ開始を機に、共産党の一党独裁体制排除の動きは東欧各地に拡大し、1989年11月9日にベルリンの壁が取り除かれ、東西の冷戦構造は終結しました。
イタリア大会のピッチ上とその周辺では、まだこれらの動きに直結する事態は起きませんでした。しかしながら、この大会の郵便物資料(郵趣品)に、その間の痕跡やイタリア大会後の展開を予感させるものが存在します。
◆ ポーランドの民主化運動
東欧における民主化のはじまりは、1980年、ポーランドのレーニン造船所において、共産圏で初めて共産党から独立した組織、自主管理労組「連帯」結成だとされています。これに対し、政府は1981年に「連帯」を非合法化しましたが、国民の支持を受けた「連帯」の活動は続けられ、当時のヤルゼルスキ政権も穏健な対応を見せていました。
1982年ワールドカップ・スペイン大会でポーランドは、2次リーグA組でソ連と対戦、0対0で引き分けました。この試合が行われたバルセロナのカンプノウ スタジアムには「連帯」支持の横断幕が掲げられていたといいます。
1986年からのソ連の動きを注視していたポーランド共産党政権は、1989年2月から「連帯」をはじめとする民主化勢力との間で「円卓会議」と称される話し合いを行いました。この会議の合意に基づき、6月には東欧最初の自由選挙が実施され、「連帯」系候補が圧勝。ヤルゼルスキが暫定的な大統領に、連帯系のマゾビエツキが首相に就任し連立政権が発足しました。12月には国名を「ポーランド人民共和国」から「ポーランド共和国」に改めています。
ポーランドの民主化が比較的穏やかな進展しつつあるなか、同国はイタリア大会のヨーロッパ地域予選グループ2で、アルバニア、スウェーデン、イングランドと戦いました。1989年11月15日のアルバニアとの予選最終試合は、2対1で勝利しましたが、グループ3位となり、残念ながら新生ポーランドの姿をイタリア大会で見ることは出来ませんでした。
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大会記念
(1990年6月8日発行・
ポーランド) |
◆ ルーマニアの民主化
1989年11月15日、ルーマニアはヨーロッパ地域予選グループ1で、デンマークと戦い3対0でこれを下し、グループ首位で本大会出場を決めています。
その1月後の12月16日、ルーマニア西部の都市「ミニショアラ」で、同地の牧師で人権活動家テケシュの国外退去処分への抗議運動鎮圧のため、治安部隊が発砲した事件が起きました。これが発端となり、チャウシェスク政権は1週間足らずで崩壊。逃亡を企てた大統領夫妻は拘束され、銃殺刑に処せられ、その模様は世界中に放映され鮮烈な印象を残しました。
1980年代に同国経済は疲弊し、対外債務の支払いに国内農産物をあてたため、国民は過酷な窮乏生活を強いられていました。その窮状を無視し、チャウシェスクは、首都ブカレストに豪華な宮殿を建て、党や国家の要職を家族や親族で独占・私物化を進めていました。
ルーマニアの場合は共産主義排斥運動というより、チャウシェスク大統領個人の独裁体制への国民の不満・反感が極限に達し、ついには国軍まで反旗を翻し、“自業自得”の結末を迎えたといわれます。
ワールドカップ・イタリア大会開幕日(1990年6月8日)付の大会記念特別記念印の押された記念カバー(封筒)を紹介します。特別記念消印は事件の発端となった
ティミショアラ局のもので、1990年1月8日発行の、新生「ルーマニア共和国」最初の切手が貼付されています。上部に、チャウシェスク政権が崩壊し、暫定政権「救国戦線評議会」が組織された
「1989年12月22日」の日付が刻まれ、「勝利のVサイン」、「ローソクの灯」の背景に新しい国旗が配されていますが、この国旗の黄色い部分に描かれていた旧政権の紋章は取り除かれています。
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大会開幕記念カバー
(1990年6月8日付印・
ティミショアラ局・ルーマニア) |
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