第4部 ブラジル、ジュール・リメ杯永久保持へ(1962〜1970年)
2.第7回ワールドカップ・チリ大会 (1962) A
◆本大会
◇試合方式
第6回大会とほぼ同じですが、1次リ−グの順位決定に「得失点差」が新しく用いられたことから「順位決定戦」は姿を消しました。
◇開催都市
開催都市は6市の予定でしたが、大地震の影響から4市に変更され、1次リーグは、グループ別に4市で各6試合が開催される方式で行われました。
サンティアゴ |
10試合
1次グループ2の6試合、準々決勝、準決勝、
3位決定戦、決勝各1試合
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ア リ カ |
7試合
1次グループ1の6試合、準々決勝1試合 |
ビニャ・デル・マル |
8試合
1次グループ3の6試合、準々決勝、準決勝各1試合
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ランカグア |
7試合
1次グループ4の6試合、準々決勝1試合 |
◇1次リーグ
グループ3のスペインは、対チェコスロバキア(0-1)、メキシコ(1-0)、ブラジル(1-2)
の成績で、グループ最下位に終わってしまいました。しかしスコアが示すように僅差で敗れてのグループリーグ敗退でした。
スペイン代表には1954年大会で準優勝したハンガリーのキャプテンを務めたフェレンツ・プシュカス(35歳)の名前があります。
1956年10月に勃発したハンガリー動乱の際、彼はコチシュ(1954年大会得点王・11ゴール)やチボル等とともに亡命しました。これに伴う制裁(当初2ヵ年、後に15ヵ月に短縮)を受けた後、1958‐59シーズンから「レアル・マドリード」でプレイを再開。1961年にスペイン国籍を取得、スペイン代表としてのデビューはチリ大会の地域予選での対モロッコ戦でした。本大会ではスペインの全3試合に出場しています。
◇第2ラウンド
前述のとおり、1956年のハンガリー動乱の余波を受け「マジック・マジャール」は分解し黄金時代は終わったといわれます。
ハンガリーに残ったグロシチ、ボジク、ヒデクチ等で構成するチームは1958年本大会に進んだものの1次グループリーグを突破できませんでした。
しかしチリ大会の1次リーグ・グループ4を首位で勝ち抜き、準々決勝でチェコスロバキアと対戦、0−1で敗れました。
この大会でハンガリーをベスト8に導いたのが、ワールドカップ初出場のフロリアン・アルベルトでした。1941年生まれ、1952年からハンガリーの名門クラブ「フェレンツバローシュ」に所属し、1959年6月28日の対スウェーデン戦で代表デビューしました。1960年のオリンピック・ローマ大会に参加、銅メダル獲得に貢献しています。ワールドカップ・チリ大会でも4ゴールを挙げていますが、彼の活躍ははじまったばかりで、その後1960年代のハンガリーサッカーをけん引し続けることになります。2011年10月31日、70歳で亡くなりましたが、ハンガリー郵政は2012年、彼を追悼する小型シートを発行しています。
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「フロリアン・アルベルトの追憶」
記念小型シート
(2012年・ハンガリー) |
―ちょっと寄り道―
大会記念切手発行のオープン化
本大会に勝ち進んだ6ヵ国が記念切手を発行したことは前回記しましたが、このほかに パラグアイ(1930、1950、1958年本大会出場、チリ大会地域予選で敗退)とアルバニア、モンゴルが大会記念切手を発行しました。
アルバニアはFIFAに加盟(1932年)してはいましたが、これまで地域予選にも参加したことがありませんでした。モンゴルは当時FIFAにも加盟していません(1998年加盟)。
チリ大会にはじまったこの傾向は、その後エスカレートし、どこの国・地域からも堂々と「ワールドカップ大会記念」と銘うった切手を発行するようになっていきます。
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大会記念
(左同図案5種、右同図案3種、計8種と右同図案の小型シートあり、
それぞれ無目打あり)
(1962年6月30日発行・パラグアイ) |
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大会記念
(左同図案4種と右小型シート1種、またそれぞれ無目打あり)
(1962年7月発行・アルバニア) |
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大会記念 5種 (1962年5月15日発行・モンゴル) |
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<切手の国名表示>
アルバニア <R.P.E. SHQIPERISE・シュチペリセ>
R.P.Eは当時の「人民共和国」(REPBLIKA POPULLORE E)の略表記。SHQIPERISEはアルバニア語で「鷲の国」を意味し、15世紀にオスマントルコの軍勢を打ち破った英雄スカンデルベクがアルバニア人の精悍さを讃え、「鷲の子孫」と呼んだことに由来すると言われています。この国の国名表記もたびたび変更されています。
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