第3部 ワールドカップ・世界的イベントへの道(1950〜1958年)
3.第4回ワールドカップ・ブラジル大会 (1950年)B
― イタリアの敗退 ―
◆イタリア・サッカーへのFIFAの処遇
1934年と1938年のワールドカップ2大会の覇者イタリアは、「前大会優勝国」として「予選免除」の特権をそのまま享受、1次リーグにおいてグループ3に第1シードされました。
第2次大戦終結後、ドイツと日本はFIFAから1946年〜1950年まで資格停止の処分をうけました。しかしイタリアにはなんら処分はありませんでした。1940年、イタリアはこの大戦に枢軸国側として参戦、1943年9月に無条件降伏し、連合国軍支援のもと、イタリアからドイツ軍を一掃するなど、戦局終盤における同国の行動が考慮されたのでしょうか?
◆スペルガの悲劇
イタリア代表チーム、「アズ―リ」は、1942年以来活動を中断していましたが、大戦終結後間もない、1945年11月には早くもスイスとの国際試合を行っています。
新生アズーリづくりに着手したポッツォ監督は、バレンチノ、マッツォーラをはじめとして、グレザル、ロイク、ガベットなど「トリノ」の選手を中心にチームを編成しました。
1949年からノーヴォがポッツォの跡をつぎ、同監督は初戦のポルトガル戦を4対1で下し、2戦目のスペイン戦にも3対1と勝利し、順調なスタートを切った直後に悲劇が起きました。
1949年5月4日、「ベンフィカ・リスボン」との親善試合を終えた「トリノ」の選手たちを乗せたアリタリア機が、トリノ近郊の「スペルガの丘」に立つ、バシリカ教会の壁に激突、乗員と乗客全員31名が死亡する惨事でした。
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1945‐46当時のトリノ・メンバーの
シルエット、バシリカ教会と墜落機 |
バシリカ教会、クラブのエンブレム、
死亡した18人の選手名 |
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死亡した選手18名と監督(レスリー・リーブスリー)・スタッフ計5名の肖像
(集合写真は1948−99シーズンのもの)
「スペルガの悲劇・追悼50周年記念」小型シート
(1999年発行・ソマリア) |
◆「船旅」の選択
イタリアは、初戦でスウェーデンに2対3で敗れ、第2戦でパラグアイを2対0で下したもののグループ2位となり、わずか2試合でブラジルを去らなければなりませんでした(スウェーデンは1948年のロンドン・オリンピックで優勝した強豪で、しかもイタリアでプレイした選手が多く含まれ、イタリア慣れしていました)。
「悲劇」により、スタッフを含むチームづくりが十分でなかったことは当然ですが、渡航手段として飛行機ではなく船旅を選択した上、スケジュール管理の不手際から、チーム到着が初戦前日になってしまったということも見逃せません。
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