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■ 手のひらの上のサッカー史
  <INDEX>
 
第1部 初期のサッカー切手
1.サッカー切手の誕生
2.競技場面を最初に描いた切手
3.競技を最初に描いたオリンピック切手
4.ウルグアイのオリンピック連覇
5.第1回W杯ウルグアイ大会 @
6.第1回W杯ウルグアイ大会 A
7.第1回W杯ウルグアイ大会 B
8.第2回W杯イタリア大会 @
9.第2回W杯イタリア大会 A
10.バルカン地域のサッカー
11.オリンピック・ベルリン大会
12.第3回W杯フランス大会 @
13.第3回W杯フランス大会 A

14.第3回W杯フランス大会 B

15.緊迫下での国際試合
16.中南米のサッカー切手
17.「1924〜1944年」のまとめ
第2部 
サッカー郵便物資料の源流
1.サッカーの母国は「近代郵便  制度の母国」
2.イギリスのサッカー絵ハガキ
3.日本のサッカー絵はがき
4.切手でないサッカー切手
5.サッカーと郵便の大衆化
第3部 
W杯・世界的イベントへの道
1.第4回W杯ブラジル大会 @
2.第4回W杯ブラジル大会 A
3.第4回W杯ブラジル大会 B
4.第5回W杯スイス大会 @
5.第5回W杯スイス大会 A
6.第5回W杯スイス大会 B
7.第5回W杯スイス大会 C
8.第5回W杯スイス大会 D
9.第6回W杯スウェーデン大会 @
10.第6回スウェーデン大会 A
11.第6回スウェーデン大会 B
12.第6回スウェーデン大会 C
13.第6回スウェーデン大会 D
14.第6回スウェーデン大会 E
第4部 ブラジル、ジュール・リメ杯永久保持へ
1.第7回W杯チリ大会 @
2.第7回W杯チリ大会 A
3.第7回W杯チリ大会 B
4.第8回W杯イングランド大会 @
5.第8回W杯イングランド大会 A

6.第8回W杯イングランド大会 B

7.第8回W杯イングランド大会 C
8.第8回W杯イングランド大会 D
9.第9回W杯メキシコ大会 @
10.第9回W杯メキシコ大会 A
11.第9回W杯メキシコ大会 B
12.第9回W杯メキシコ大会 C
13.第9回W杯メキシコ大会 D
第5部
ワールドカップ変貌の始まり
1.第10回W杯西ドイツ大会 @
2.第10回W杯西ドイツ大会 A
3.第10回W杯西ドイツ大会 B
4.第10回W杯西ドイツ大会 C
5.第10回W杯西ドイツ大会 D
6.第11回アルゼンチン大会 @
7.第11回アルゼンチン大会 A
8.第11回アルゼンチン大会 B
9.第12回W杯スペイン大会 @
10.第12回W杯スペイン大会 A
11.第12回W杯スペイン大会 B
12.第12回W杯スペイン大会 C
13.第12回W杯スペイン大会 D
14.第12回W杯スペイン大会 E
第6部
ワールドカップ、USA開催へ
1.第13回W杯メキシコ大会 @
2.第13回W杯メキシコ大会 A
3.第13回W杯メキシコ大会 B
4.第14回W杯イタリア大会 @
5.第14回W杯イタリア大会 A
6.第14回W杯イタリア大会 B
7.第15回W杯USA大会 @
8.第15回W杯USA大会 A
9.第15回W杯USA大会 B
10.第15回W杯USA大会 C
11.第15回W杯USA大会 D
12.第15回W杯USA大会 E

■ 手のひらの上のサッカー史
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小堀 俊一 (こほり・しゅんいち)
1941年生まれ。 
フットボール・フィラテリスト、ビバ!サッカー研究会会員。
40年あまり前から、サッカー郵趣品(切手・はがき・封筒・記念消印などの郵便物資料)を収集し、楽しみながら世界のサッカーを学び続けています。
著書:「サッカー百科展」(1992年・大修館書店)、「サッカースタンプスタジアム」 (2002年・ 日本郵趣出版)

 

 


第3部 ワールドカップ・世界的イベントへの道(1950〜1958年)
3.第4回ワールドカップ・ブラジル大会 (1950年)B
   ― イタリアの敗退 ―

◆イタリア・サッカーへのFIFAの処遇
 1934年と1938年のワールドカップ2大会の覇者イタリアは、「前大会優勝国」として「予選免除」の特権をそのまま享受、1次リーグにおいてグループ3に第1シードされました。
 第2次大戦終結後、ドイツと日本はFIFAから1946年〜1950年まで資格停止の処分をうけました。しかしイタリアにはなんら処分はありませんでした。1940年、イタリアはこの大戦に枢軸国側として参戦、1943年9月に無条件降伏し、連合国軍支援のもと、イタリアからドイツ軍を一掃するなど、戦局終盤における同国の行動が考慮されたのでしょうか?

◆スペルガの悲劇
 イタリア代表チーム、「アズ―リ」は、1942年以来活動を中断していましたが、大戦終結後間もない、1945年11月には早くもスイスとの国際試合を行っています。
 新生アズーリづくりに着手したポッツォ監督は、バレンチノ、マッツォーラをはじめとして、グレザル、ロイク、ガベットなど「トリノ」の選手を中心にチームを編成しました。
 1949年からノーヴォがポッツォの跡をつぎ、同監督は初戦のポルトガル戦を4対1で下し、2戦目のスペイン戦にも3対1と勝利し、順調なスタートを切った直後に悲劇が起きました。
 1949年5月4日、「ベンフィカ・リスボン」との親善試合を終えた「トリノ」の選手たちを乗せたアリタリア機が、トリノ近郊の「スペルガの丘」に立つ、バシリカ教会の壁に激突、乗員と乗客全員31名が死亡する惨事でした。

1945‐46当時のトリノ・メンバーの
シルエット、バシリカ教会と墜落機

バシリカ教会、クラブのエンブレム、
死亡した18人の選手名
 

死亡した選手18名と監督(レスリー・リーブスリー)・スタッフ計5名の肖像
(集合写真は1948−99シーズンのもの)
「スペルガの悲劇・追悼50周年記念」小型シート
  (1999年発行・ソマリア)

◆「船旅」の選択
 イタリアは、初戦でスウェーデンに2対3で敗れ、第2戦でパラグアイを2対0で下したもののグループ2位となり、わずか2試合でブラジルを去らなければなりませんでした(スウェーデンは1948年のロンドン・オリンピックで優勝した強豪で、しかもイタリアでプレイした選手が多く含まれ、イタリア慣れしていました)。
  「悲劇」により、スタッフを含むチームづくりが十分でなかったことは当然ですが、渡航手段として飛行機ではなく船旅を選択した上、スケジュール管理の不手際から、チーム到着が初戦前日になってしまったということも見逃せません。


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