第5部 ワールドカップ変貌の始まり(1974〜1982年)
12.第12回ワールドカップ・スペイン大会 (1982)C
― 華麗なるプレイヤーたちの挑戦 ―
◆ 2次リーグ結果
2次リーグを突破したのは下記4チーム、いずれもヨーロッパ勢でした。
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勝 |
分 |
敗 |
得点 |
失点 |
勝点 |
ポーランド |
グループA |
1 |
1 |
0 |
3 |
0 |
3 |
西ドイツ |
グループB |
1 |
1 |
0 |
2 |
1 |
3 |
イタリア |
グループC |
2 |
0 |
0 |
5 |
3 |
4 |
フランス |
グループD |
2 |
0 |
0 |
5 |
1 |
4 |
◆ 準決勝:西ドイツ対フランス 3対3(PK5対4)
7月8日・セビリア
両軍選手交代も含め、持てる力を駆使した試合でした。17分にリトバルスキー、26分にプラティニ(PK)の得点で前半を終了。後半は共に得点なく、試合は延長に。延長前半2分にトレゾ―ル、8分にジレスとフランスが立て続けに得点し優位に立ちました。しかし延長6分に投入された西ドイツのルンメニゲが12分にゴールへ流し込み1点差に迫りました。その6分後には、フィッシャーがバイシクル・シュートを決め、3対3に追い付くという劇的な展開でした。ワールドカップ史上はじめてのPK戦も息をのむ壮絶なものでした。
GKシューマッハの活躍で西ドイツは「セビリアの奇跡」を起こし、フランスは「悲劇」の主人公となってしまいました。
<フランス >
ジレス○、アモロ○、ロシュトー○、シス×、プラティニ○、ボッシ×
<西ドイツ >
カルツ○、ブライトナー○、シュティーリケ×、リトバルスキー○、
ルンメニゲ○、ルベッシュ○
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マッチデイ・カバー
(西ドイツ フィッシャーのシュートで同点に追いつく)
(貼付切手は1982年5月2日発行・スペイン。特別記念消印7月8日付) |
◆ 準決勝:イタリア対ポーランド 2対0 7月8日・バルセロナ
ロッシの勢いは止まることなく、22分と73分に得点し、イタリアは1970年メキシコ大会以来の決勝進出を決めました。
◆ 3位決定戦:ポーランド対フランス 3対2
7月10日・アリカンテ
ポーランドは13分に、フランスのジラ―ルに先制点を許しましたが、前半終了近くに2得点を上げ逆転。後半開始早々にも3点目が入り、試合は3対2で終了。
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大会記念絵ハガキ
(貼付切手は1982年4月28日発行・
フランス)
特別記念印の中に「フランスサッカー協会FFF、プロリーグ50周年」
の表記あり。
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特別記念印 1982年9月30日付
決勝・3位決定戦のスコア入り
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ポーランド3位獲得記念
(1983年4月5日発行・ポーランド) |
◆ 決勝:イタリア対西ドイツ 3対1 7月11日・マドリード
サンチャゴ・ベルナベウ・スタジアムで9万人を上回る観客が見守るなかで決勝戦は行われました。
イタリアは負傷中の中心選手アントニオーニを欠いてのスタートでした。さらに開始間もなく、グラツィア―ニも肩を痛めてアルトベッリと交代せざるを得ませんでした。24分のPKをカブリーニが外して前半は両チーム無得点のまま終了。
後半はイタリアが攻勢に出ました。ロッシ(57分)、タルデリ(69分、アルトベリ(81分)が次々と得点を重ね、アズーリ(イタリア代表)の44年ぶりの優勝を決定的なものにしてしまいました。
西ドイツは試合終了前の87分に、過去5年間代表から離れていたブライトナーがゴールを決めましたが大勢に影響はありませんでした。
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西ドイツ準優勝記念ハガキ
(特別記念消印付)
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イタリアが、ブラジルについで3度のワールドカップ優勝を果たした国となりました。1次リーグの段階ではひ弱さが目立ちましたが、アルゼンチン(2対1)、ブラジル(3対2)と、難敵を下し、ポーランドと西ドイツをも破っての価値ある優勝でした。
イタリアサッカー復活の最大の功労者は、ブラジル戦のハットトリック以降ゴールを量産し、大会得点王(6ゴール)になったロッシですが、彼を我慢強く起用し続け、かつてないほどの非難・中傷・侮辱を浴びせる自国マスコミから選手たちを遠ざけ、チームをひとつにまとめた、エンツォ・ベアルゾット監督の手腕が勝ち取った優勝にほかなりません。40歳になっていた主将ディノ・ゾフの存在も大きなものでした。マスコミの矢面に立ち、ベアルゾット監督をよく補佐したからです。
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イタリア優勝記念初日カバー
(貼付切手は1982年9月12日発行・
イタリア)
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