第5部 ワールドカップ変貌の始まり(1974〜1982年)
6.第11回ワールドカップ・アルゼンチン大会 (1978) @
― 次世代スーパースター探しの大会 ―
◆40年目の悲願達成
アルゼンチンが第11回大会の開催地に決定したのは、1966年7月6日にロンドンで開かれたFIFA総会(当時の会長はスタンレー・ラウス)においてでした。
同国は1938年大会に初立候補以来、1950年、1962年、1974年の各大会にも立候補しましたが、ことごとく退けられ、40年目にしてやっと手に入れた開催国決定でした。
◆「ワールドカップ開催」を選択した軍事政権
大会開始までの12年間は、準備期間としては十分すぎるものでしたが、開催国に決定した当時からすでにアルゼンチンの政情は不安定続きでした。
大会2年2ヵ月前の1976年3月24日、軍部はクーデターを起こし、イサベル・ペロン大統領(1974年7月に急死した前大統領ファン・ペロンの妻)を追放し、中心人物であったホルへ・ビデラは軍事評議会を設置し、同3月29日に大統領に就任しました。
ビデラ大統領は就任直後、「ワールドカップの予定通り開催」を決めました。1973年に起きたオイルショックは元々低迷していたアルゼンチン経済に大打撃をあたえ、想像を超えるほどの物価上昇を招き、イサベル退任の原因になっていたほどでした。そのような状況下でのこの選択は、「政権維持は、ワールドカップを無事開催できるかどうかにかかっている」との考えに基づく決定でした。
1976年7月に「アルゼンチン・ワールドカップ組織委員会」(EAM)の委員長にカルロス・オマール・アクティス将軍が任命されましたが、同8月19日の国際的な記者会見へ向かう途中暗殺される事件が起きました。犯行は左翼ゲリラ、モントネロスによるものだといわれました。(モントネロス自身は関与を否定する声明を発表)
アクティス将軍自身は高名なエンジニアであり誠実で清廉潔白な人物で、「国にぜいたくをするほどの余裕はない」ことを理解しつつ慎重に事を進めていたといわれます。(前掲「盗まれたワールドカップ」による)
それはさておき、この暗殺事件は軍事政権に「すべてはワールドカップ実現のため」という恰好の口実を与えることになってしまいました。これを名目として、反政府活動家などに対し、厳しい弾圧が行われ、数万人の市民が連行され、行方知らずになったといわれています。
当然ながら、激しい反発が起きましたが弾圧は強まるばかりでした。ここにいたって、ヨーロッパの一部でも問題になり、特にアムネスティ・インターナショナルは事態打開のための一大キャンペーンを展開しました。しかしFIFAは全く動かず、大会は決行されました。
◆開催周知のための記念切手発行
アルゼンチンがこの大会の第1次記念切手を発行したのは、1977年5月14日で、大会初日(1978年6月1日)のおよそ1年前のことです。その後も同初日までの間に、2次から4次(既発行切手への大会名追加印刷を含む)の切手も発行しています。
第2回大会から第10回大会までの発行状況(*大会直前に1回発行)にくらべ、1次切手の発行時期の早さと発行回数の多さが目立っており、世界への大会開催を周知するねらいがあったものと推察されます。
*1970年メキシコ大会は1968年のメキシコ・オリンピックと同一デザイナーが起用され、
両イベントの郵趣品がパッケージとして進められたことからワールドカップ初日の9ヵ月前に発行されています。
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開催記念切手 1次 2種
(1977年5月14日発行 アルゼンチン) |
◆地域予選
地域予選の組み合わせ抽選会は、1975年11月19日グアテマラで行われ、予選は、アルゼンチンで政変が起きる前の、1976年3月7日から1978年6月25日にわたって世界各地でくりひろげられました。なお、実際に試合に参加したのは、96の国・地域と考えています。(予選参加後、途中棄権のザイールとシリアを含む)
予選の結果、次の16ヵ国が本大会への出場権を獲得しました。( )内は本大会出場回数。
なお、アベランジェの会長選時の「本大会出場枠数増加」の公約は、アルゼンチン政権への負担増になることから見送られました。
ヨーロッパ (10) |
西ドイツ(前回優勝国)(7)、
イタリア (9)、オーストリア(4)、
オランダ(4)、スウェーデン(7)、
スコットランド(4)、スペイン(5)、
ハンガリー(7)、
フランス(7)、
ポーランド(2) |
南米 (3) |
アルゼンチン(開催国)(7)
ブラジル(11)、ペルー(3) |
中米 (1) |
メキシコ(8) |
アフリカ(1) |
チュニジア(初) |
アジア(1) |
イラン(初) |
注)太字国名は大会記念切手発行国 |
イングランドはヨーロッパ地域グループ2でイタリアに敗れ2位、ウルグアイは南米地域グループ2でボリビアに敗れ、ともに本大会出場権を逃してしまいました。
日本はアジア地域グループ2、で韓国、イスラエルと戦いましたが、1分3敗で同グループ3位でした。また台湾はAFCからは除名されていましたが、FIFAでの除名処分は否決され、当時オセアニア連盟に加盟(現在はAFC復帰)、オーストラリア、ニュージーランドと同じグループで予選を戦いました。(中国は1958年にFIFAを脱退、復帰は1979年)
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本大会初参加記念 2種
(1978年6月1日発行 チュニジア) |
―ちょっと寄り道―
「オーストリアとワールドカップ記念切手」
オーストリアは第11回大会の本大会に進出しましたが、ワールドカップ記念切手は発行しませんでした。しかしながら本大会進出を記念するB5版大のカードを発行しています。
カードには、ヨーロッパ地域予選グループ3における各国との6試合の各スコア、本大会での組分け(グループ3)が記載され、監督セネコビッツの署名も入っています。
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本大会進出記念カード
(特別記念印1978年1月27日付 オーストリア)
貼付切手は「スポーツくじ25周年記念・1974年発行」
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なおオーストリアは現在まで本大会に8回出場していますが、一度もワールドカップ記念切手を発行していない珍しい国です。第3回大会で地域予選を突破しながらドイツに併合され、本大会へ出場出来なかった悲痛な思いを味わった後遺症では、と考えるのは思いすごしでしょうか?
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