9.
初めて日本に来たころ
◆ユニフォームは各自1枚
「日本サッカー界は、そのころたいへん貧乏だった」
クラマーさんは、1960年10月の初来日当時を振り返ってこう語る。
「いまでは考えられないことだが、国の代表なのに日本選手はユニフォームを各自1枚づつしか持っていなかった。練習が終わって宿舎に帰ると、汗と泥にまみれたユニフォームを自分たちで洗濯していた。洗濯機がないから手で洗い、一晩干して翌日使った」
「ユニフォームはナイロン製でシワにならないものだったが、吸湿性が悪く、洗濯したあと、夜中ポタリポタリと水滴が落ちた。その音が気になって眠れず、時々絞りに行くのだが、全部を絞り切れず水分が残っていて、また水滴の音がするので、八重樫が眠れないとよくこぼしていた。そんな劣悪環境には正直のところびっくりした」
(余談 68年メキシコ・オリンピックの第1試合で、日本はナイジェリアに3−1で勝ったが、八重樫は後半30分に負傷し、以後の全試合に出られなくなった。仕方なく裏方に回ったベテラン八重樫は、選手村で後輩の汚れたユニフォームを洗った。洗濯機がなく、その時も手洗いだった。これ八重樫の話)
◆箸の使い方の練習
日本行きを決意したクラマーさんがデュイスブルクを出発したのは1960年10月28日だった。SAS機でデュッセルドルフ、コペンハーゲン、スピッベルゲン、北極上空、アンカレージという具合に24時間もかかって東京羽田空港に29日の夜10時に着いた。「遠いなあ」というのが実感だった。
簡単な記者会見の後、宿舎山の上ホテルに向かった。日本選手はほかの宿舎に合宿しており、竹腰理事長が「明日朝、朝食に迎えにくる」と言って帰っていった。鉛筆2本を使って箸の使い方を練習し、寝たのは午前2時ごろだった。
翌朝、デュイスブルクで一緒に過ごした日本代表に再会した。竹腰理事長の案内で、選手が合宿している本郷の日本式旅館の秀英館に行った。選手たちはちょうど朝食をとっていた。
◆目玉焼き
高橋監督以下全員そろって低いテーブルを前にあぐらをかく形ですわって、ご飯、みそ汁、漬物、そして目玉焼きを食べていた。
「みんながどのようにして食べるのか見ながら食べた。竹腰さんがつきっきりで箸の使い方を直してくれた。正直なところ、これで激しく動くサッカーにとって十分な栄養がとれるのかなと思った。貧乏だと聞いていたが、本当にそうだった。そんな生活が東京オリンピックまで続いた」
日本式の旅館は小さくて、1部屋のタタミの上に何人もの選手が寝ていた。
クラマーさんは選手との共同生活を希望し、ホテルを引き払って、その日のうちに、秀英館に移った。
◆ジャガイモ畑
トレーニングを始めて、クラマーさんが、いちばん驚いたのは、グラウンドがまるでジャガイモ畑みたいで、それはひどいものだった。雨が降ったりすると、一層ひどいことになった。ボールは防水性が悪いため、水をたっぷり吸って大砲の弾のように重たくなった。選手の靴も水を吸って重たくなった。
国立競技場は名前は国立なのに、芝があってもひどい芝だった。ところどころハゲていた。クラマーさんの記憶では、そのころ日本には、三菱が使っていたグラウンドにしか、まともな芝生がなかった。そのほかで芝生のグラウンドは見たことなかった。
たぶん東大の御殿下グラウンドだった。いつも湿った感じで、プレーするたびに土が靴の中に入った。練習が終わると毎回、靴の中まで洗わなければならなかった。
◆ローラーを使え
日本の芝は冬になると黄色になる。また冬は乾燥するので、セメントのような土のグラウンドになった。それにデコボコで、クラマーさんが「ゲナウ(正確に)」と言ってもバウンドが不規則で、ボールが「ゲナウ」に動いてくれない。イレギュラーするので、とくにキーパーには気の毒だった。
「とはいっても、ドイツでも第二次大戦直後は芝生のグラウンドはほとんどなかった。例えばボルシア・メンヘングラッドバッハですら、監督にバイスバイラーがなったころは、芝がなくアンツーカーだった。ただし、いつもローラーをかけて平らにしていた。日本でも芝生でなくてもいいから、ローラーを使えとよく言ったものだ」
◆役員の意識改革
クラマーさんは、来日していろんな現実に接しているうちに、日本のサッカー界が抱えている問題が、あまりにも多いことに気がついた。
「サッカー全体を根本的に変えなければ、絶対によくならないと思った。そのために、まず必要なのはサッカーに関係する多くの人たちの意識改革だった。これにはかなり時間がかかった。何十年も一つの組織にどっぷりと浸かっていた、例えば協会の役員たちは、その組織が十分でないことに気が付くのが難しいことだった」
「具体的に何が欠けているか、何をしなければならないかを考えた。例えば、まず芝生のグラウンド、選手の生活環境の整備、コーチングシステムの確立、代表選手の選考のやり方、試合方法をリーグシステムにすることなどなど、手をつけなければならないことが、たくさんあった。もちろん私のアドバイスで、これらのことは、何にもないところから、徐々に作られ改良されて行った」
◆W杯予選で韓国に負ける
だが、クラマーさんにとって試練ともいえる試合が待っていた。それは60年11月6日ソウルでの、韓国とのワールドカップ・チリ大会のアジア予選アウェーの第1戦だった。
もともと日本蹴球協会が、この時期に合わせてクラマーさんを招いたのは、この試合があるからだった。
だが、いくら日本サッカー界に「外人コーチを呼んで予選を突破したい」という思惑があっても、来日してわずか1週間。デュイスブルクで数日間練習をみていたとはいえ、クラマーさんの力で勝てるという保証はなかった。
「私(クラマーさん)がソウルへ行くのも、韓国チームを見るのも初めてだった。練習を見て、技術的にも、試合経験からも日本の力がかなり上回っていると思った。私は、日本有利とみていた。だが、負けた」
◆韓国の謀略(?)
「その後、何回もソウルに行き、韓国チームをコーチしたこともあるが、日本がよく負ける理由がわからなかった。レベルは日本が上だからだ。だが、韓国は日本に対し、毎回異常といえるほど闘志を燃やしていた。どうしても勝とうという意気込みがあった。常に精神の力では、明らかに韓国が上回っていた。日韓の間に横たわる過去の歴史が、そうさせているとしか言いようがない」
ところが、審判を韓国人がやった。クラマーさんは「気が狂うほど驚いた。国際試合で、しかもワールドカップ予選で、こんなことが起こっていいのか」
聞けば、予定していたフィリピンの審判員が飛行機に乗り遅れたとかだった。
「韓国側は、彼は国際審判員だからいいじゃないか、とゴリ押しすれば、日本側が引き下がると読んでいた。私(クラマーさん)が恐れていたことが現実になった。試合前の打ち合わせで、竹腰さんが、韓国の言い分を認めた段階で、日本の勝つチャンスは、すでになくなっていた」
試合は日本が先制したが、前半終わり立て続けに2点を奪われて1−2で、日本は敗れた。韓国の2点は、明らかにオフサイドだった。クラマーさんは、FIFAに電話したが、「対戦する双方が、納得した審判なら文句はいえない」という返事だった。
「そのころの日本サッカーは、国際試合に関する最も基本的なことすら知らなかった」
1991年に、クラマーさんが韓国に行った時、その国際審判員は、韓国サッカー協会の副会長になっていた。韓国サッカー界に影響力のある人だった。クラマーさんに対し「60年の試合の時は、すまなかったね」と言ったそうだ。
その国際審判員を、クラマーさんは「ワンさん」と呼んでいるが、当時の試合記録によれば、「主審・金徳俊」と書いてある。
★ クラマーさんとの会話(9) 「日本は第二の故郷」
中条 遠い日本。サッカーの後進性、そして劣悪環境。ちょっと質問しにくいのですが、日本に初めて行った時、「たいへんな所にやってきた。こんな仕事なんか投げ出して、早くドイツに帰りたい」と思いませんでしたか。
クラマー 全然思わなかった。日本サッカーのどんなところが問題か、どうしたらいいか。1日中そんなことを考えていたら、サッカー以外のことなど考える余裕などない。
中条 海外遠征でよくノイローゼになる選手がいますね。
クラマー たしかに、合宿などでも、ホームシックになって奥さんや恋人に会いたいという選手がいる。戦争のことを考えて見給え、そんな甘いことなど言っておれないだろう。私は、戦争でポジティブに生きることを学んだ。日本サッカーのために、この仕事を始めた。任務を果たさなければならない。私のモットーは「生きる価値のある人生を生きる」というものだ。日本での仕事に生きる価値を見いだした。日本でたくさんの友人を得て、日本のサッカーが盛んになってうれしい。
中条 将来、できれば琵琶湖のほとりに住みたいと考えたことがあるそうですが。
クラマー 平木君と、一緒に琵琶湖に行ったことがある。その時、ここに住みたいと思った。中学生のころドイツ人の作家マックス・ダウテンダイの本を読んだことがある。彼は第一次大戦前から大戦中にかけて琵琶湖のほとりに住み、日本の説話「琵琶湖の八つの顔」をドイツ語に翻訳した。そんな思い出があったからだ。私にとって日本は第二の故郷だ。
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