(35)1966年W杯イングランド大会
◆国歌の大合唱
1950−60年代、ロイター通信にバーノン・モーガンというベテラン・スポーツ記者がいた。元陸上競技の選手で、28年アムステルダム・オリンピックの3000m障害に出場した。
私は若いころ、時差の関係で深夜、ロンドンからパチパチとテレックスの音を響かせながら送られてくる長文の外電で、モーガンの数々の記事を読んで、いつか会いたいと思っていた。68年グルノーブル冬季オリンピックのとき、話を聞く機会を得た。
「今までいちばん感激したスポーツ場面は何ですか」
てっきり彼は、夏冬合わせて10数回のオリンピックを取材した中から選ぶと思っていた。
ところが、「2年前のサッカーのワールドカップ決勝で、イングランドが西ドイツを破った。観衆の中から自然発生的に『ゴット セーブ ザ クイーン』の大合唱が起こった。私も女王の前で力いっぱい歌った。あの時だね」と答えた。
ワールドカップで開催国が優勝すると、いつでもそうだが、地元は狂乱といっていいほど盛り上がる。あの時もそうだった。ある大衆紙(紙名が判らないのが残念)は「英国は、第2次大戦に続いて再びドイツに勝った」とまで書いたといわれる。
うらやましいことに、この決勝を見ていた、幸運な日本人が50人以上もいた。
◆フォーメーション論議
その幸運者は、日本代表チームの長沼監督ら23人と、日本蹴球協会が公募した視察団の指導者や地方協会の役員ら31人だった。あのウエンブレー・スタジアムで、準決勝、決勝など数試合を見たのだ。
日本代表は65年に続いて66年も、恒例となったソ連・ヨーロッパに遠征していた。その途中、ロンドンに立ち寄ったものだった。プロの強豪同士の真剣勝負、とくにスピードと技術の高さ、スタミナに選手たちは深い感銘を受けた。
日本蹴球協会・竹腰重丸理事長と握手するクラマーさん。(提供・クラマーさん) |
ほかに、日本協会の野津会長と竹腰理事長が大会期間中ロンドンに滞在していた。当時は出場16カ国で、竹腰理事長の報告書には「どう欲張っても7試合以上は見れなかった」とある。注目されるのは、そのころ日本のサッカー界が悩んでいたフォーメーションについて、竹腰がこう書いていることだ。
「西欧型、南米型、その中間をゆく東欧型と類型的にサッカーを考え、WM型だ、4・2・4だ、とフォーメーションの論議が盛んだが、益のないことである。(中略)しょせんボール扱いの技能水準を高め、それに対抗する守備を考える以外にない(身体の大きさの問題もあるが)のであって、フォーメーションを規制するものは技術の水準である」
◆「クラマーさんだ」
西ドイツはグループ・リーグを2勝1分けでなんなく突破、準決勝でソ連に2−1で勝ち、決勝で地元イングランドと歴史に残る死闘を繰りひろげた。その試合中、西ドイツのゴールキーパーが倒れて、しばらく立ち上がれないことがあった。
西ドイツのベンチから、トレーニング姿の小柄な男が飛び出した。日本の見学団の中から、思わず数人の声が上がった。
「あっ、クラマーさんだ」
日本で指導を受けた地方の指導者にとってなつかしい顔だった。見学団の駒井康人団長(奈良県協会会長)は報告書に「こんどの旅行中の、うれしかったことの一つである」と書いている。
監督のアシスタントだったクラマーさんはいう。
「選手が倒れた時、ピッチに2人しか入れない規則になっていて、エーリッヒ・ドイザーというマッサージ師と私が介抱に向かうことになっていた。しかし、私の役目は、ドイザーが介抱をしている間、選手たちに作戦上の指示を与えることだった」
◆意見の食い違い
この試合でもクラマーさんとシェーン監督の意見の食い違いがあった。
「どんなスタメンで、どんな作戦で行くか。シェーンは3日3晩考えたそうだ。そしてベッケンバウアーをボビー・チャールトンに当てると言った。私は『あまりにも守備的ではないか』と反対した」
「イングランドの最大の弱点は右バックスのコーエンだった。それで、私はベッケンバウアーを(コーエンに対峙する)左ウイングの位置において、時々ゼーラーの後ろに移動させて第二のセンターフォワードの位置で自由に動かせたほうがいいと助言した。つまり攻撃的な布陣だった」
クラマーさんの考えは「調子のいいベッケンバウアーを何もチャールトンのマークだけに使うのは惜しい」というものだった。
この意見の食い違いは秘密の話で、外部に明かしていなかったが、選手がしゃべってしまい、マスコミに嗅ぎ付けられて、ドイツでは有名な話になってしまった。
2001年東京で、日本とブラジルが試合をした時、クラマーさんはスタンドで偶然ベッケンバウアーとチャールトンに会い、3人でいっしょに観戦した。
「そこで66年の思い出話がでた。チャールトンが、ラムゼー監督に『ベッケンバウアーをマークしろ』と命ぜられていたと話した。それを聞いて、あの時もし西ドイツが、私がいった攻撃的な作戦でいっていたら勝てたかもしれないと思った。試合のなかで、チャールトンがベッケンバウアーを終始追っかける格好だったからだ」
◆クラマーの「私の失敗」
ドイツが先制した。だが、その後、ドイツは守りにまわって引いてしまった。クラマーさんは「ここに心理学的な失敗があった」という。
「準決勝でイングランドとポルトガルが試合した時、主将のウベ・ゼーラーが『テレビ放送を見ていいですか』と許可を求めてきた。イングランドは緒戦のウルグアイと0−0で引き分け、それまでたいした試合をしていなかった。地元新聞も『イングランドの優勝は無理』と書くほどだった」
「だから、準決勝でもたいした試合はしないだろう。それでもイングランド研究にはなるだろう、と『見たければ見ろ』と言って私はほかに用があって外出した」
「ところがイングランドはポルトガルに対し、かつて見たこともないようなすばらしいプレーを見せた。とくにチャールトンが中盤を見事に支配し、自ら2点をとる活躍をした。それがドイツ選手に自信喪失とまではいわないが、『イングランドは強い』という心理的なプレッシャーをもたらした。先取点をとったのに、ウベ以下全員のイングランドに対する『尊敬の念』から、引いて守りに入る失敗を犯してしまった。テレビを見せたことは、私の明らかな失敗だった」
「ドイツが犯したもう一つの失敗は、ヘッティゲスにハーストをマークさせたことだ。ヘッティゲスは、ドイツでヘディングがいちばん下手くそだ。それに準決勝で少し怪我をしていたせいもあって、ハーストに2点もとられた。ヘッティゲスを出さない方がよかったという説もあるが、もちろん後の話だ」
実際にはハーストは3得点を挙げている。最後の1点は、延長でのクロスバーに当たって真下に落ちてゴールの外に飛び出した、話題の得点だ。「あの3点目は絶対にゴールしていない。噴飯ものだ」と、クラマーさんはいまだに怒っている。
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クラマーさんとの会話(35) 「サッカーは芸術だ」 (96年当時の会話)
中条 昔の試合のビデオをよく見るのですが、まるで別のスポーツのように感じることがあります。
クラマー たしかに私が若いころと、今では見違えるほどだ。サッカーは日に日に進歩している。その第一は、運動量が多くなったことだ。私が兵役から帰った46年ころは、まだWMシステムだったが、1試合に走る距離はせいぜい6、7キロだった。現代では攻撃とともに守備も要求され、やらねばならぬ仕事とともに運動量も増えている。とくにミッドフィルダーは10キロから15キロと、私のころの2倍以上の運動量が必要だ。
中条 陸上競技の長距離選手並みですね。
クラマー それだけコンディショニングにも数倍のケアが必要になってきた。ケア専門の人がチームにつくようになった。
中条 最初に日本代表がドイツに来たころは、私が薬箱を抱えて走っていました。
クラマー それと、技術も進歩した。昔はゆっくりとボールをキープすることができたが、最近はボールを持つと周囲から間髪入れず相手守備陣が、まるで猟犬のように襲ってくる。それをいかにスピーディにかわすか。高い技術が必要だ。
中条 そうですね。
クラマー 組織がよくても技術がなくては勝てない。ゴール枠にきちんと決めるのも技術だ。サッカーは技術のスポーツであり、つきつめれば芸術だ。
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