17.
長沼−岡野コンビの誕生
◆監督交代の声
マスコミやファンは、常に勝利を求める。だが、私の独断に過ぎないが、長いサッカーの歴史の節目節目で、後から振り返って「負けてよかった」という試合がある。
1962年のアジア競技大会とムルデカ大会の予想外の大敗北は、結果としてまさにそれだった。監督交代のきっかけとなった。
クラマーさんが言っていたことがある。「日本と欧州の監督の違いはアマチュアとプロの違いだ。アマの監督は負けても首切られないが、プロは3試合続けて負けると首切られる」
クラマーさんは「アマの監督」という言葉を使い、日本の仲良しグループを批判したわけだが、いくら契約書もないボランティアだったとしても、こうも不振が続けば、もう待ってはおれない。
ましてや、この年のアジア競技大会とムルデカは、かなりの時間と金をかけて準備し、優勝するつもりで臨んだ大会だった。
かくして、選手の間でもひそかにささやかれていた「高橋英辰監督更迭」が表面化した。
◆若手との話し合い
クラマーさんは、アジア競技大会とムルデカ大会には参加しなかったが、それまで長沼、岡野、八重樫、平木といった若手たちと「日本サッカーの将来はどうあるべきかを、友人として非公式に、試合や大会が終わった夜に反省会を兼ねて、お茶を飲みながら」よく話し合っていた。
「そんな時、わざと名前を出して、かなりきつい言葉で古い人たちを批判することがあった。そんな人たちのために名誉委員会でも作って、雲の上に祭り上げて拝み奉った方がいいというようなことまで出た。要するに古臭い話が多いのを、若い人たちはいやがっていた」
私(中条)も、クラマーさんにジントニックを御馳走になりながら、何度かサッカーの将来について話し合った。協会全体の組織を、近代的にどう改革すべきだという話も出た。
「君は私にとってジャーナリストではなく、サッカー界内部の人間として話した。まあ、互いに正直に話し合ったものだね」
監督交代の流れは、そんな空気の中から出て来た。
◆古い形の監督
日本サッカー協会の公式記録によれば、高橋監督は1957年10−11月の中国遠征(2勝1分4敗)の時、日本代表監督に就任した。その後、1958年5月東京で開かれたアジア競技大会で、一時的に川本泰三に譲った。川本は1936年のベルリン・オリンピックで大活躍した名選手。いわば日本の切り札的な存在だった。だが、なんたることか。フィリピン、香港にあえなく2連敗、最下位で予選落ちした。
仕方なく、戦後長く監督を務めていた竹腰重丸がカムバックした。高橋は竹腰監督を助ける形でコーチに就任した。まさに人材不足。竹腰は21戦して5勝6分10敗。涙ぐましい努力は買うにしても、結果として選手時代の経験だけで、選手を指導する古い形の監督の限界をさらけ出した。
高橋が再び監督に就任したのは、ローマ・オリンピック予選で出場権を失った後の、1960年8月の欧州遠征の折りだ。そこでクラマーさんに初めて会い、ほぼクラマーさんと行動をともにしてきた。最初クラマーさんに反発を感じながらも、クラマーさんの影響を受けた一人といえるだろう。
◆勉強家の高橋監督
岡野俊一郎は、クラマーさんについて「日本に新しいコーチ学をもたらした人」という風に表現する。この言葉通り、高橋も、クラマーさんの指導者育成の系統立ったコーチ学に次第に心酔していった。クラマーさんのノウハウを吸収することにおいて、高橋は優等生だったといってもいい。
基本からやり直し、正確さとスピードを重視する、日本代表の練習も一変した。だが、高橋はやはりタイプとしては古い型の監督だった。ここらあたりをクラマーさんは「タカハシはおだやかでいい人だった。トレーナーとして非常な勉強家でサッカーの豊富な知識と信念を持っていた。個人的にも奥さんを紹介され、非常に親しくなった。日立本社の練習を見たことがあるが、いろんなものをバランスよく配合し、カクテルのように調和がとれていた。だが、代表選手に対しては一方的で、ジェネレーション・ギャップといおうか、選手と完全にコミュニケーションがとれているとはいえなかった」
◆2人のボス
当時高橋は46歳。今風に考えれば、監督としてジェネレーション・ギャップといえるほど、そんなに年をとっていたわけではない。だが、これも私の独断かもしれないが、高橋にとって、不幸は常にクラマーさんと競演の形になったことだ。
選手達は2人のボスの存在に戸惑った。同じことを言っても、選手はクラマーさんに従った。クラマーさんが物を言えば、高橋は黙っているしかなかった。
またクラマーさんとしても、アドバイザーという身分を越えて高橋監督を常に無視するわけにもいかなかった。これはサッカー界全体にとっても不幸だった。ギクシャクした空気がつきまとった。
最後はクラマーさんのよき理解者と
なった高橋監督 (右) |
高橋はストレートに本心をさらけ出す人ではなかった。本当のところは、東京オリンピックまで監督を続けたかったに違いない。だが、もう一つの不幸は、肝心の戦績がついてきてくれなかったことだ。その点、選手側にもおおいに責任がある。
戦績は1962年のムルデカ大会まで39試合して、6勝4分29敗。結局、総監督に格上げする形の監督辞任となった。スパッと首切れないところも、当時アマ団体らしい仲良しクラブの甘さだった。
◆長沼監督の誕生早まる
長沼健についてクラマーさんは、「1953年にドルトムントで学生大会が開かれたが、その時初めて見た。岡野も見た。長沼は印象に残る選手だった」。
だから、クラマーさんは初来日当時から長沼の存在に注目していた。「ロコモチフがやってきて東京と広島で試合したが、なぜ長沼が起用されないのか不思議に思った」
長沼が古河電工の監督兼選手として、1961年の全日本選手権に優勝した時、クラマーさんは「ケン(長沼)は、実にクレバーな動きで得点をとっただけでなく、選手を掌握し、みんなから尊敬され信頼されていることがよくわかった。将来代表チームを率いる器とみた」
かくして長沼監督−岡野コーチのコンビが誕生した。62年のアジア競技大会で、もし日本が優勝でもしておれば、いずれ長沼−岡野ラインが出現したとしても、かなり後のことになったろう。とすれば、メキシコでの銅メダルもなかったかも、とみるのはウガチすぎだろうか。
東京オリンピックまで、残すところ1年10カ月。
★ クラマーさんとの会話(17) 「システムに捕らわれるな」
中条 日本の高校の指導者や評論家には、4
- 2 - 4とか、3バックスとかシステムに捕らわれる人が多い。どう思いますか。
クラマー 日本では理論が優先し、システムが好きなようだね。だが、極端にいえば、4
- 2 - 4なんてどうでもいい。システムに捕らわれると頭の中身まで硬直化してスムーズに動けなくなる。
中条 なるほど。
クラマー 1958年Wカップ直前、世界中の新聞記者が集まった席で、ブラジルのフィオーラ監督に「どういうシステムでいくのか。4
- 2 - 4か」という質問がでた。彼は質問の意味が分からないふりをして「ブラジルではサッカーは11人でやる」などと答えていた。結局は「強いていえば、4
- 2.5 - 3.5くらいかな」と答えた。実際の試合で4 - 2 - 4であったためしがない。それなのに世界中がいまだにこのことを議論している。頭でっかちな机上の空論はいただけない。
「クラマー取材ノートから」に対するご意見・ご感想をおよせください。
こちらから。
|