11.
クラマーさんへの反対
◆韓国に完敗
1961年6月11日、東京・国立競技場でのチリ・ワールドカップ予選の韓国との第2戦で、日本はいいところがなく敗れた。
「韓国にはどうしても勝とう、という意気込みがあった。実際、あの時の韓国は強かった」と、クラマーさん。
前回、自国審判を使って辛勝した韓国は、危機感を持って約半年間、金容植をコーチに徹底的にトレーニングをやっていた。金コーチは、植民地時代日本選手としてベルリン五輪に出場していたので、日本の手の内を知り尽くしていた。
「もし、あの時、日本が勝っていたら、その後の私(クラマーさん)の仕事は、もう少しやりやすくなっていたろう」
だが、負けた。クラマーさんへの風当たりは強くなった。
◆関西から反対の声
野津会長がクラマーさんの招待を決める段階から、日本蹴球協会の一部の常務理事の間に反対の声がなかったわけでない。
「野津会長が、あれだけクラマーに執念を燃やしているのだから、まあ黙っておこう」という雰囲気でもあった。
ところが韓国に連敗した直後、少し事情が変わった。
主として関西方面の常務理事からクラマーさんに反対する声が再び湧き起こってきた。
「われわれにはベルリン・オリンピック以来、培ってきた日本人ならではの戦い方がある。今さら外国人コーチに教えを乞う必要があろうか。体格の大きさ、エネルギッシュな動きから見ても、ドイツ方式は日本人に向かない。繊細な日本人の良さを失っては何にもならない」
「欧州の高等戦術を教えてもらえると思っていたら、聞けば基礎練習ばかりやっているそうではないか。それで勝てるのか」
◆白熱した議論
クラマーさんは言う。
「正確な日にちは覚えていない。韓国戦の直後だった。大阪に行った時、お酒を飲みながら川本泰三さん、西邑昌一さんとディスカッションをした。その席には賀川太郎さん、鴇田正憲さん、岩谷俊夫さんら関西のサッカーをリードする実力者が顔を揃えていた。日本代表の高橋監督もいた。議論の内容は、いまでもはっきりと強烈に覚えている」
「川本さんらは、ここぞとばかり私を攻撃して来た。昔の同僚の金容植が韓国のコーチだったから、よけいそれ見たことか、といわんばかりだった。そして自分たちはこうやってきた、ああやってきたと2世代も前のベルリンの美しい思い出話ばかりしていた」
議論はかなり白熱したようだ。クラマーさんの口ぶりから、平生のクラマーさんらしくなく、かなり腹を立てていたことがうかがえる。
「ドイツ方式ウンヌンといわれた時は、すこしムッとした。ベルリンでスウェーデンに勝った日本の戦いぶりは、ヘルベルガーさんが賞賛するほどすばらしかったと聞いている。だが、ドイツだって、ワールドカップに優勝しているし、私は60年の時点で、すでに4回のワールドカップを見ているから、いろんな国々のサッカーのことを知っている。口には出さなかったが、気持ちの上でそう思っていたので、1歩も引かなかった」
◆岩谷俊夫が救いの手
「高橋監督は、川本さんらとはキャリアが違うし、大学の先輩だから反論もしてくれなかった」
だが、毎日新聞の記者で、外国の事情にもくわしく、円満な人物でもある岩谷俊夫が、クラマーさんの味方をしてくれた。
「岩谷さんは、彼らは年長者だから礼儀正しく接しなければならないが、あんな連中の言うことは忘れてしまえと言ってくれた」
「もちろん、悪意を持っての議論ではなかった。川本さんは紳士だったので、お互いにていねいに接したが、議論はかなり激しいものだった」
最後まで意見は合わないままだった。
◆なぜ長沼を起用しない
クラマーさんは日韓戦で、なぜ長沼健を使わなかったのか不思議だった。長沼は全日本選手権で2年連続優勝した古河電工の監督兼選手として目立った活躍をしていた。司令塔として若い選手を自由に動かし、折りをみて巧みに得点した。また、古河の同僚に信頼されていることが、その試合ぶりからもわかった。
「ケン(長沼のこと)は、少し年をとっているといっても、まだ32歳だった。リーダーシップがあり、選手としてすばらしい能力を持っていた」
「ケンはよく言っていた。ペナルティエリア内では、僕はみんなが動いている時に立ち止まり、みんなが止まった時に動く、と。20年後、世界の得点王ゲルト・ミューラーが、まったく同じことを言っている。とにかく、キツネのように賢い点取り屋だった」。
クラマーさんは高橋監督に「なぜ長沼を使わないのか」と聞いたところ、「代表候補に入っていないからだ」ということだった。
「なぜ候補にも入れなかったのか。その理由は知らない。もう年だからと事務的に処理したのだろう。だが、たとえ候補でなくても、好調な人、必要な人は抜擢すべきではないか」。
◆長沼を起用
11月28日ユーゴが来日した。そこでクラマーさんは、長沼を使った。ユーゴはチリ・ワールドカップ第2次予選で、日本を破った韓国に2連勝し、ソウルからの帰途だった。
「ユーゴは偉大なチームだった。ローマ五輪では韓国に大勝し、チリでは4位だった。日本にとって負けてモトモトの相手だった。どうせ負けるのなら、初めて新しい戦法を試してみようと思った。それには代表を多く出している古河の同僚に、とくに信頼されているケンが最適任だった」
この新戦法を簡単に説明すると、相手ウイングが攻めてくる時、こちらのウイングを下がらせてマークさせる。するとバックスが楽になり、フリーでリベロ役がやれる。そのリベロ役は、主に中央にいてダブルストッパーとして防御に当たらせる、というものだった。
このウイングをウイングにマークさせる戦法は、1952年ヘルシンキ・オリンピックでヘルベルガーが西ドイツに用いたものだった。日本もその後の7年間メキシコ・オリンピックまで、ずっとこれをやっていた。クラマーさんは、後のバイエルン・ミュンヘン監督時代にもこれを使ったというが、今ではバックスをウイングとして攻撃させるウイングバックという名前で普通になっている。
左から、クラマーさん、岡野、長沼。
|
「ユーゴ戦では、みんなケンの指示を良く聞いて、戦術的には大成功だった。ラッキーな点を決められて0−1で負けたが……」
「その後もケンを使いたかったが、やはり年齢には勝てず、足が遅くなった。3年後の東京オリンピックまで、選手として引っ張っておくのはとてもできなかった。それに当時、彼は会社での仕事の責任がおおきくなりつつあった」
だが、これが縁で、やがて長沼は代表監督として起用されることになる。
★ クラマーさんとの会話(11) 「プロとアマの違い」
中条 初来日のころ、クラマーさんに反対する声をかなり感じたようですね。
クラマー 君が新聞記者としてなら決して言わないよ。友人としてなら言えるけど、古い人達はベルリンでの勝利を引きずっていた。功績のあった人達には違いないが、私の理解が及ばないところがあった。何かやろうとするとブレーキをかける人達がいた。
中条 選手の反応はどうでした。
クラマー 試合の夜など、お茶を飲みながら話したことがある。選手達もわざと個人名を出して、名誉委員会でも作って祭り上げた方がいいというような話も出た。正直のところ、古い人はアマチュアだ。プロとアマの違いだね。
中条 厳しさの違いは感じますね。
クラマー 東京オリンピックで、アルゼンチンに勝った瞬間、八重樫が私のところへ飛んで来て何と言ったと思うかね。「クラマーさん、ベルリンのこと、これで忘れられますね」
「クラマー取材ノートから」に対するご意見・ご感想をおよせください。
こちらから。
|