29.
ヘルベルガーの後継者
◆代表監督の可能性
サッカーの指導者にとって、究極的な夢は「1国の代表監督」になることだろう。それで、もしワールドカップで優勝でもすれば、それこそ人生の最高の歓びだろう。
私はクラマーさんに、ぶしつけな質問をしたことがある。
「クラマーさんは、西ドイツの代表監督になるチャンスはなかったのですか」
こんな質問をした理由は2つある。
クラマーさんは、後にバイエルン・ミュンヘンの監督としてヨーロピアンカップ(いまのチャンピオンズリーグ)で2連勝した。それほどの人なのに、なぜ代表監督になれなかったのか、という思いがひとつ。
もうひとつは、何度も紹介している通り、クラマーさんは1960年以来東京オリンピックまで4回も来日した。その間、スポルト・シューレの主任コーチの地位が保証されていたとはいえ、やはり西ドイツを留守にしていたハンディは大きかったのではないか。つまり日本サッカーは進歩したが、大きな代償をクラマーさんに払わせたのではないか、ということ。
「そんなことはない。もしそうだとしても、私は日本で得難い貴重な多くの友情を得た」
クラマーさんの答えは、いつも正統派で明快だ。だが、結局のところクラマーさんは西ドイツの代表監督になることはなかった。
◆日本行きを断れない
代表監督にはなれなかったが、クラマーさんは「チャンスがなかったわけではない」とこんな裏話をしてくれた。
「55年だからスイスでのワールドカップで優勝した翌年のことだ。代表監督だったヘルベルガーさんに『私のアシスタントとして代表チームをみてくれないか』と誘われた。ヘルベルガーさんは、私のため彼の住んでいるマインハイムに大きな家を借りる手配までしてくれていた。だが、私は家族がいるドルトムントから離れるわけにはいかなかった」
「それに、その頃私は3つのスポルト・シューレでコーチを30人ずつ、全部で90人を教える新しいコーチングシステムを始めたばかりだった。その成果を見るまでは、デュイスブルクを離れるのは無理だった」
「その上、西地区のアマチュアチームの指導もしていた。ちょうどアシスタントの話が出たころ、その選抜チームを率いて、ヘルベルガーさんといっしょにイングランドに遠征して3−2で勝った。試合後、飛行機嫌いのヘルベルガーさんは、選手一行と離れて船で帰国した」
「私は一日遅れで飛行機で帰る予定だったが、霧が濃くて離陸が3時間も遅れた。ヘルベルガーさんと正午にデュイスブルクで会う約束していたのに遅れてしまった」
「約束の時間に、私が来ないので、ヘルベルガーさんは『お前のため家を借りて、これだけのことをやっているのに』と怒りだし、帰宅してしまった。ヘルベルガーさんとしては、そのままフランクフルトに連れて行って、代表監督アシスタントとしての西ドイツ協会との契約書にサインさせたかったらしい」
「ヘルベルガーさんは、60年に私が日本に行く時、55年のことを思い出して、『お前はあの時アシスタントを断った。まさか今度の日本行きは断わらないだろうな』とおっしゃった。私は日本に興味を持っていたし、日本行きを断る理由もなかった。これは、まあ昔の話だがね」
翌56年、後にヘルベルガーの後任監督となるヘルムート・シェーンがアシスタントに就任する。
クラマーさんが、もし55年にアシスタントになっておれば、あるいは、次期監督という線があったかもしれない。ヘルベルガーもかつては前任のネルツ監督のアシスタントをやっていて昇格したからだ。
◆若手育成の第一人者
「いま一つ、代表監督らしき話がでたことがある」と、クラマーさんは、さらに話を進めた。
「東京オリンピックの前年1963年のカーニバルのころだったから2月だったと思う。デュイスブルクで若い人を教えていた私は、ユース監督としてオーストリアとホームアンドアウェイで試合した。オーストリアから帰る前に、ヘルベルガーさんから『デュイスブルクに帰るんだろ。途中のホテルで会おう』という電話をもらった」
「試合の翌々日ホテルで待っていると、普通奥さんなど連れてくることなどなかったのに、珍しく奥さん同伴だった。ヘルベルガーさんには子どもがいなかったので、私は奥さんに息子のようにかわいがられていた。ヘルベルガーさんが中座した時、奥さんが『代表監督の後任としてヘルベルガーが望んでいるのはどうやらあなたらしいよ』と言った」
「だが」とクラマーさんは一息ついて続ける。
「ヘルベルガーさんは私を代表監督にすることは、基本的には考えていなかったと思う。若いタレントを育てる仕事が向いていると言っていた。マスコミにも『クラマーは選手を育てる第一人者だ』とよく言っていた。そのころデュイスブルクで毎週水曜日に有望選手を集めてテクニックの練習をやらせていた。代表チームに送り込む人材を育てるのが仕事で、育てた選手はウベ・ゼーラー、ベッケンバウアー、オベラート、シュネリンガー、シュルツ、ゼップ・マイヤーら。彼らは全部私の息子たちである」
◆シェーン監督の誕生
翌64年1月1日付けで、クラマーさんは西ドイツ・サッカー連盟(DFB)入りしたが、ヘルベルガーが採用したのは、シェーンとクラマーによる「アシスタント2人制」だった。
56年以来、アシスタントをやっていたシェーンはAチーム担当に、クラマーさんはBチーム以下ユース、アマチュア、指導者養成のすべてを任されることになった。その間、クラマーさんはドイツ第2テレビ、ZDFの編集者もやっていた。
64年6月30日にヘルベルガーが代表監督から引退した。目の前に66年イングランド・ワールドカップの予選(11月4日対スウェーデン・ベルリン)が迫っていた。
ヘルベルガーは後任の代表監督にAチームを担当していたシェーンを任命した。情報の収集、分析力に定評のあるクラマーさんは、シェーン監督のアシスタントとしてスウェーデン戦に当たることになった。シェーン49歳、クラマー39歳だった。ヘルベルガーは、この二人の組合わせをベストと考えたようだ。
東京オリンピックから帰国したばかりのクラマーさんは、早速アシスタントの仕事についたが、新監督シェーンとの間は、必ずしもしっくり行かなかった。
ヘルベルガーは77年に亡くなった。80歳。
中央のクラマーさんを挟んで、右がヘルムート・シェーン監督。左がシェーン監督の次に代表監督になったユップ・デアバル監督。(クラマーさん提供)
|
★
クラマーさんとの会話(29) 「フリッツ・ワルターのこと」
中条 ヘルベルガーさんは、後任監督にフリッツ・ワルターをやらせたかったといわれていますね。
クラマー そうだ。ヘルベルガーさんは54年ワールドカップで優勝した直後から、ワルターを後継者にしたいと考えていた。それでヘルベルガーさんは、私のところでワルターにコーチのライセンスをとらせた。
中条 ワルターは何といっても優勝の最大の功労者ですからね。
クラマー 「アシスタントにクラマーをつけるから」と勧めたが、ワルターは「やりたくない」と断った。「私は心配性で強心臓でないから、代表監督の仕事は耐えられない」というのがその理由だった。後に小さな町のクラブの監督をやったことがあるが、彼は経済面でまったく困っていなかった。アディダスのアドバイザーや電気関係のテレビ・コマーシャルに出るなど裕福だった。
中条 ワルターはヘルベルガーの信頼が本当に厚かったようですね。
クラマー 62年のチリのワールドカップで、西ドイツはユーゴに負けてベスト8に終わった。ヘルベルガーはこう言った。「42歳のワルターを代表に入れる勇気はなかったが、もし彼がいたらユーゴに負けなかっただろう」
「クラマー取材ノートから」に対するご意見・ご感想をおよせください。
こちらから。
|