(39)世界コーチ行脚始まる
◆日本開催の決断
1966年アジア競技大会(バンコク)で3位に入った日本代表の次の目標は、67年9月から10月にかけて開かれるメキシコ・オリンピックのアジア予選を突破することだった。韓国、中華民国(台湾)、フィリピン、南ベトナム、レバノンとの総当たりリーグ戦で、日本は1位にならなければならない。
アジア競技大会で、暑さと連戦による苛酷なアウェイ試合に懲りた日本は、東京での予選開催を強く主張した。
フィリピンも開催を希望したが、参加各国の往復旅費、滞在費を全額負担することを条件に、日本は開催の権利を獲得した。財政的にあまり豊かでなかった当時の日本蹴球協会にとって、ホーム開催は野津会長以下幹部の大決断だった。
もちろん結果論だが、これがメキシコ・オリンピック銅メダル獲得への第1歩となった。それだけ、「何としても国際レベルまで這いあがろう」という、協会あげての熱意が感じられた。
◆バンコクを拠点に
一方クラマーさんは、1967年4月1日付けでFIFAコーチになった。この時、形式上西ドイツ・サッカー協会(DFB)と縁が切れた。(ただし、恩師ヘルベルガーは64年6月30日に引退していたが、個人的なアドバイスは、ヘルベルガーが77年に亡くなるまでずっと受けていた)。
FIFAは、クラマーさんのためバンコクに一軒家を用意してくれた。ここを拠点に、クラマーさんは各国へのコーチ旅行を始めた。メキシコ・オリンピックへもここから出掛けた。
クラマーさんはバンコク、ラングーン、ボンベイで指導したのち、5月31日に来日した。本来のスケジュールは68年2月来日の予定だったが、日本代表を指導してもらうため、日本側の希望で予定を早めたものだった。来日直後の6月3日、駒沢競技場で「日本リーグの創設に貢献した」として、日本リーグの西村総務主事から表彰を受けた。
◆相次ぐ強豪の来日
「国際試合に勝つためには、1試合でも多くの国際試合の経験を積むしかない。試合をすれば欠点がわかる。その欠点を修正するのが練習だ。試合、練習、また試合。その繰り返しが強くなる道だ」
このクラマーさんの教えに応える形で、長沼監督に率いられた日本代表は、メキシコ・オリンピックの前年の67年に、アジア予選を含めて1年間に実に24試合も国際試合をこなした(それまでの最高は63年の20試合)。
2月のソ連オリンピック代表、5月のミドルセックス・ワンダラーズ=オリンピック代表(イングランド)6月のパルメイラス(ブラジル)を相次いで招待した。それぞれ3試合をやり、ソ連から1引き分け、ミドルセックスとパルメイラスから1勝を挙げた。
FIFAコーチとして練習を見るクラマーさん(左隣は岡野コーチ)。
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パルメイラスはサンパウロ・リーグで優勝したばかりで、左サイドバックにワールドカップ3回出場のジャウマ・サントスがいる世界的に有名なチームだった。ちょうど来日中のクラマーさんがベンチに入った。
クラマーさんは、「南米チームはスローテンポだから、クローズド・マーク(密着マーク)をすれば勝機がある」として、4FBの後ろに、一人余らせるスイーパーを置き、鎌田を起用した。相手がボールを取る瞬間、あるいは行動を起こす瞬間をねらってタックルし、鎌田がそれをフォローする作戦が、まんまと図に当たり、第2戦の前半0−0で防ぎ切り、結局2−1で勝った。これはメキシコ・オリンピックでの地元メキシコ相手に大いに役に立った戦法だった。
さらに日本代表は、休む間もなく7月から8月にかけてペルー、ブラジルなど南米に遠征した。途中、まるでアジア予選の突破を見越したかようにメキシコに立ち寄り、高地を経験している。
◆やっと予選突破
9月27日から始まったメキシコ・オリンピック予選で、日本代表は3つの幸運(?)に恵まれて、予選を突破した。人によっては見方が違うと思うが、ナロウ・ビクトリー(辛勝)だった。
1)第1戦のフィリピンに15−0で大勝したこと。結果的に、これで同勝点となった韓国に対し、得失差で上回ることになった。韓国は最終戦でフィリピンに対戦したが、フィリピンの徹底した全員守備作戦にあって5−0に終わった。日本は初戦だったからこそ15点もとれた。
2)10月7日の韓国戦で、日本は前半2−0とリードしながら後半追いつかれた。釜本が3−2にしたが再び追いつかれ、3−3になった後の後半44分、韓国の丁炳卓が最後の力を振り絞って約30メートルのロングシュートを放った。ボールはキーパー横山の手をかすめてクロスバーを強烈にたたき大観衆は息をのんだ。もしあれが入っていたら日本のメキシコの勝利はなかった。
前半雨が降りしきり泥んこ状態で、日本の組織的なプレーは全く影をひそめた。クロスバーにくっきり残ったボールの泥の跡は数カ月も残っていた。釜本は「当分の間、あの跡を見る度に、ヒヤリとした一瞬を思い出したものです」と述懐する。
3)10月10日の最終戦のベトナム戦はどうしても勝たねばならない。もし引き分ければ、勝点で韓国に負けてしまう。だが、日本は攻めているのだが、なかなか得点が生まれない。ベトナムの好守というより、日本の得点欠乏症だ。後半5分、肩を脱臼して痛み止めを打って出場の杉山が相手キーパーともつれながら得点。日本は、この1点を必死に守り切った。
◆オーストリア監督を断る
クラマーさんは10月15日から年末までパプアニューギニアの4週間を皮切りに、オーストラリア、ニュージーランド、フィージーなどオセアニア諸国をまわった。パプアニューギニアでは、行く前に「人食い人種がいるよ」などと脅かされたが、そんなことはなく快適なコーチ旅行を続けた。
オセアニア諸国はイングランド、スコットランドの影響を色濃く受けており、ニュージーランドは元チェルシーの選手が監督だった。ここでは、ドイツでのトレーナー養成の経験が大いに役に立った。
オセアニア諸国を回った後、アメリカに行った。ニューヨークやシカゴの冬は寒かった。南の国から行った上に、高層ビルの間を風が吹き抜けて、目にゴミが入るし、寒さが身にしみた。冬物がなかったので、早速現地で調達した。アメリカの協会長はドイツ系ユダヤ人でとても親切で、いい手助けをしてくれた。
ヘルベルガーから、いろんなアドバイスを受けていた。「FIFAコーチは1年でやめて(契約上は任期1年だった)、1年後の68年3月31日からオーストリアの監督をやったらどうか」と電話をもらった。しかし、その時、次の69年以後のFIFAのコーチング・プログラムが決まっていたので、67年12月31日にオーストリア協会に「ノー」と断った。
翌1月1日に、ヘルベルガーからまた電話があり「オーストリアから残念だという電話があったぞ。なぜ断ったのか」と、珍しく機嫌が悪かった。
1月9日にヘルベルガーから再び電話があった。「70年ワールドカップのヨーロッパ予選の組み合わせ抽選の結果を見たか。オーストリアは西ドイツと同じ組に入ってしまった。監督を断ってよかったな」と言ってくれた。
本当のところは、クラマーさんはFIFAコーチを任期の1年でやめるつもりだった。だが、69年以後のプログラムの都合もあったが、FIFAに招いてくれたラウス会長との友情もあってFIFAから去れなくなっていた。
結局、FIFAコーチは67年からラウスが会長職をアベランジェに譲った74年6月30日までの7年3カ月もやった。この間、正確には57カ国を回った。そのほかの期間、個人的な形でのコーチを合わせると、アフリカ諸国など生涯で約90カ国でコーチした。
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クラマーさんとの会話(39) 「食事と昼寝」
中条 クラマーさんが、意外に小食なので驚いたことがあります。
クラマー いつもあまり食べない。食事が腹に詰まっていると、動作も頭の働きも鈍くなる。中国にいた時は、朝食と昼食はバナナと紅茶だけだった。
中条 それで、体はもつのですか。
クラマー 快適だよ。キミもやって見給え。
中条 昼寝も必ずされますね。日本での講習会では、いつも昼寝の時間がとってありましたね。すぐ眠れますか。
クラマー 激しく動いているから、横になったらすぐに眠れる。昼寝は30分でいい。30分経つと目覚ましがなくても自然に目が覚める。30分以上眠ると、頭がボーとしてよくない。いまでも生活のリズムがそうなっている。ベットがなければ、横になれる椅子でもいい。
中条 超人ですね。
クラマー 中国では、午前は理論とトレーニング、昼はバナナとお茶、昼寝、午後1時半に家を出て、道具は揃っているかを点検、2時から再びトレーニング。このパターンで5年間過ごしたよ。
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