20.
ムルデカ大会と日本
◆日本初めて上位に
クラマーさんが主任コーチを勤めるデュイスブルクのスポルト・シューレは、日本代表にとって「第2の故郷」になった。
前回紹介したように、東京オリンピックの前年の1963年。5月末から約50日間、ヨーロッパに遠征した長沼監督−岡野コーチらは、ここでクラマーさんにみっちりと鍛えられた。
東京オリンピックに向けての日本代表の次の目標、というより勝っておかなければならない大会は、63年8月にクアラルンプールで開かれた第6回ムルデカ大会(正式名称はマラヤ独立記念大会。ムルデカはマレー語で独立の意味)だった。ドイツで鍛えられたそのままのメンバー(第2キーパーだけ横山謙三から西垣成美に交代)で参加した。早くもクラマー効果が現れた。
4勝1分け1敗で、2位と初めて上位に入ったのだ。これは画期的なことだった。
それまで東南アジアの国々に「日本は、なぜムルデカに目を向けてくれないのか。アジアを軽視しているというより冷淡だ。欧州ばかりに目を向けている」といわれていたからだ。この点、第1回から参加し、常に上位を占めている韓国と対照的だった。
◆ラーマン首相の熱意
ムルデカ大会は、サッカー好きで知られるマラヤ連邦(57年に英連邦から独立、63年シンガポールなどを合併してマレーシア連邦となる)のトンク・アブドル・ラーマン首相が、「アジアのレベル向上」を目的に、1958年に始めたもの。マラヤ、タイ、インド、インドネシアなど東南アジアの国々に、韓国、台湾が加わり、事実上東アジアのチャンピオンを決める大会。日本にとって実力を試す絶好の大会となるはずだった。
ところが、日本はマラヤ独立1周年を記念して始めた58年の第1回大会に、なぜか参加しなかった。同じ年の東京でのアジア競技大会に惨敗したショックが大きかったからかもしれない。
第2回は竹腰重丸、第3回は西邑昌一、第4、5回は高橋英辰が監督として参加したが、成績は、時たま勝っても肝心のところでは負けるという格好で、すべて第1次リーグで敗退していた。
時には代表2軍を送ったり、欧州遠征の途中に寄り道したりしたためだが、アジア競技大会の不成績と合わせて、日本はアジアでは勝てない、とまでいわれていた。
この連載の16回で紹介したように、1962年6月、クラマーさんが帰国に当たって残したコメントには、アジア情勢を具体的に国名を挙げて分析し、「来るアジア競技大会で日本は優勝できる」とあった。だが、ジャカルタでのアジア競技大会では惨敗に終わった。クラマーさんのコメントは、日本代表への励ましの意味もあったのだろうが、当時の日本のアジアでのレベルは、まさにその程度だったのだ。そんな時、長沼−岡野による、2位の好成績。
◆観戦に来ない日本大使
63年ムルデカ大会は、優勝した台湾をはじめ、韓国、ベトナム、マレーシア、タイに英連邦極東軍を加えた7チームによるリーグ戦だった。
10日間に6試合という苛酷な日程だった。当時を振り返って、コーチの岡野はいう。
「日本はオープニング・ゲームで、いきなり地元マレーシアに当てられた。日本、くみしやすしとみたのだろう。だが、接戦の末4−3(2−1)で勝った。次のベトナムも4−1(1−0)で連勝した」
「日本の試合は、連日クアラルンプールのムルデカ・スタジアムが満員になった。サッカーの国際試合といえば、どんな大会でも各国大使がずらりと来るのに、日本大使はなぜ来ないのか、とマレーシアの役員たちに不思議がられた。たぶん日本大使はサッカーの国際試合が、どんなものかを知らなかったのだろう」
◆喜ぶラーマン首相
「大会中のディナーパーティで、会長のラーマン首相のところへ各国の代表がおみやげを持っていった。長沼監督と僕で、ラーマンのところへ行ったら、ラーマンが涙を浮かべて喜んで手を離さない。あとで、マレーシアのリエゾン・オフィサーに、このことを話したら、『実は』と裏話をしてくれた」
「大会前、最後の組織委員会で『もう日本を招待するのを止めよう』という話が提案され、大多数が賛成していた。日本は不熱心で、いつも弱いチームしか送って来ないし、観客も入らないから、というのがその理由だった」
「ところが、委員会の最後に、ラーマン会長が立ち上がって言った。『もう一回だけ呼ぼう。日本人は一度決心したら必ずやりとげる人たちだから』と発言し、日本を呼ぶことが決まったというのだった」
日本がいきなり連勝したものだから、ラーマンは喜んで手を握ってはなさなかったのは、こういう経緯があったからだ。
◆PKで台湾に負ける
結局、日本は第3試合でベトナムに5−1(2−0)、第4試合で韓国と1−1(0−0)の引き分け。第5試合は全員香港の選手で固めた台湾に、明らかな誤審によるPKをとられて0−2(0−0)で負けたが、最終戦は英連邦軍に6−1(4−1)で快勝した。4勝1分1敗の勝点9で、勝点10の台湾に次ぎ2位に終わった。もし台湾に引き分けておれば優勝できるところだった。
「日本に帰って、ある新聞記者に聞いたら、『ムルデカで初優勝』という記事をトップを明けて待っていたのに、といわれた。サッカーでこんなことは初めてだった」
◆ラウス会長が賞賛
長沼監督は、「すべてクラマーさんのおかげ」という。
「ヨーロッパ遠征でつかんだ選手のセンスと自信が大きくものをいった。そんな感覚は、日本国内で100回試合をやっても、また100回合宿しても得ることはできないものだ。デュイスブルクで教えられたサッカーがいかに正しいか、選手は感じていた」
「いわれのないPKで、台湾に負けて、優勝から1歩後退したが、翌朝FIFA会長のサー・スタンレー・ラウスが、わざわざ私の部屋を訪れてくれた。彼は、『この大会で、最も新しく、いいフットボールをやっているのは日本チームで、そのシステム、スタイル、タクティックを、私はとても気に入っている』と言ってくれた」
「日本代表は開眼した」といえば褒め過ぎだろうが、それに近い国際試合のコツのようなものを掴んだといえるだろう。
3年後、クラマーさんは、そのスタンレー・ラウス会長からFIFAコーチに任命され、世界中を飛び回ることになる。
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クラマーさんとの会話(20) 「エルンスト・ハッペル」
中条 いつか78年アルゼンチンW杯で、オランダを準優勝に導いたハッペル監督はすばらしいトレーナーだったと、お聞きしましたが。
ハッペル(左)と談笑するクラマーさん。 |
クラマー エルンスト・ハッペルは、私と同年のオーストリアの人ですばらしい友人だった。選手としてW杯に出たが、監督としても有名で長くオランダ、ドイツ、ベルギーなどで働いた。ベッケンバウアーも彼を非常に尊敬していた。ウィーンのスタディアムは、彼の名前が付いている。ガンになって、オーストリアに帰った時はガリガリに痩せて自分で歩けないくらい衰弱していた。それでも3年限定でオーストリア監督をやってくれと頼まれたほどだ。
中条 どんな考えの人でしたか。
クラマー とにかく現場主義だった。彼は言っている。「完璧な選手はいない。アルバイト(練習)、アルバイト、そして、またアルバイトだ」と。正しい練習を一生懸命、集中的にやって、体と頭にたたき込むことで、多くのことが可能になるとも言っている。共感するところが多い。自身が忙しくて、新聞記者に書かせた本だが、すばらしい著書もある。
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