32.
フランツ・ベッケンバウアー (続き)
◆バイスの手紙を焼く
DFB(西ドイツ・サッカー連盟)のユース担当委員会に承認され、子持ちのベッケンバウアーは晴れてU-18の西ドイツ代表になった。クラマーさんはベッケンバウアーの教育係をやることになった。
デュイスブルクでの最初の合宿が終わる日、クラマーさんはベッケンバウアーを自室に呼んだ。手紙を持っていた。
「この手紙は、バイエルンのユース・コーチ、つまりお前のコーチ、ルディ・バイスがDFBに送ってきたものだ。ここにはお前の今までのことがぎっしり書いてある。お前が非常にすぐれた選手で、将来ドイツを背負って立つだろうということも、職場の女性と付き合って子どもが生まれたことも書いてある。だが、これはすべて過去のことだ。お前が自分の本当の価値をきめるのは未来である……」
クラマーさんは、こう言いながらライターで手紙に火をつけた。手紙は、メラメラと燃えて、やがて灰になった。ベッケンバウアーの自伝によれば、
「私は呆然として、ただ手紙が燃えるのを見ていた。とても感激し、クラマー監督がいつ部屋から出て行ったかもわからないくらいだった」
バイスの手紙のことは、クラマーさんはその後ベッケンバウアーにひと言も語ったことはない。
◆寝食をともに
当時のドイツ・ユースはアマチュアだったから、全員仕事を持っていた。ドイツでは義務教育を終えると、たいていはパン屋、銀行員、警察官など、いろんな分野での専門的な職業教育を受け、職人として修業してそのまま上級課程やマイスターをめざすのが普通だった。
マイスターになれば、どんな分野であろうとも、世間から尊敬される。それだけドイツの職人は、自分の仕事に自信と誇りが持てるシステムになっている。
ベッケンバウアーは保険屋、ゼップ・マイヤーは旋盤工、ゲルト・ミューラーは紡績工、ギド・ブッフバルトは電気の配線工。ルディ・フェラーは銀行員をめざした。万一サッカーがうまくいかなかった時のことを考えたら都合のいい制度だった。
ユース選手の仕事はみんなまだ見習い程度だったから、週末の金、土、日にしか練習できなかった。しかも、選手はドイツ全土に散らばっているので、固定した1カ所で練習すると、遠いところに住む選手は往復に時間がかかった。それで合宿地をあちこちを転々と場所を移動した。あるときは遠くても、近いところで合宿することもあるから、ある種の公平さが保たれる理屈だった。
東京オリンピック前も、会社員が多かった日本代表を常時1カ所に集めて合宿することは困難だった。航空機もいまほど便利ではない。クラマーさんが考えたのは、トレーニングセンターを八幡、広島、大阪、東京の4カ所に置いて、クラマーさんが4カ所を巡回することだった。その方が選手に不便な交通と勤務に負担をかけないで済む。ドイツ・ユースの場合も、これに似た発想だった。
◆同じベッドに寝る
合宿地を求めて、ユース代表は週末ごとにドイツ各地を移動した。たいていのところは、すばらしいグラウンドはあったが、宿舎はよくなかった。
ハーフェンで合宿した時は宿舎がなくて、農家を借りたがベット数が足りなかった。仕方なく教育係のクラマーさんはダブルベッドでベッケンバウアーと一緒に寝た。
クラマーさんとベッケンバウアー(クラマーさん提供) |
日本代表がデュイスブルクに合宿した時もそうだったが、クラマーさんはユースの合宿でも午前中はたいてい講義に時間を使った。黒板を使って白ぼくで線を引き、一人ひとりの選手の動きを説明した。どうやったらフリースペースが作れるか、ボールを持っていない時の動きの重要性などを強調した。
ベッケンバウアーは自著の中でこう書いている。
「クラマー監督はわたしにサッカーの戦術をくわしく講義してくれた最初のコーチだった。講義は目新しいものではなかった。というのは、それはわたしがいつもやっていることだったし、自然で合理的なプレーのやり方だったからである。だが、わたしにはクラマー監督の話し方がとても印象的だった。彼は非常に具体的に話したので、彼の言葉はわたしの頭の中にしっかりと刻みこまれた」
◆大活躍デビュー
ベッケンバウアーのユースのデビュー戦は1964年3月8日、スイスのリューラッハでのスイスとの試合だった。クラマーさんはこう振り返る。
「最高のゲームだった。スイスやオーストリアはドイツの隣国なので、お互いに手の内を知りつくしている。いつもはやりにくく、とくにユースでは手こずるものだが、ベッケンバウアーが2点を挙げて2−1で勝った」
「ベッケンバウアーの動きは軽快で、私の目には、ガゼル(かもしか)のように映った」
「ベッケンバウアーはバイエルン・ユースでは初めのころFWで、主にCFをやっていたが、チーム一番のプレーヤーなので次第にゲームメーカーをやるようになっていた。スイス戦では中盤をやらせた。ドイツの一流ジャーナリストやヘルベルガーもシェーンも見ており、ベッケンバウアーはみんなに強い印象を残した」
◆大目玉
2点を挙げたベッケンバウアーは、グラウンドからロッカーに行くときマスコミに囲まれた。いきなりマイクを突き付けられ、テレビのフラッシュを浴びた。ベッケンバウアーは初めての経験だったが、聞かれるままにベラベラしゃべった。
だが、西ドイツ・チーム一行は、試合後、汽車や飛行機に乗るため、ベッケンバウアーを待っていた。
クラマーさんは怒った。
「フランツ、こっちへ来い」と、ベッケンバウアーをロッカーに連れて行き、そこではっきりとこう言った。
「お前、気でも狂ったのか。2点を入れていい気になるな。みんなはドイツ全土から集まっているんだぞ。ハンブルクから来た選手は、お前のために汽車に遅れるじゃないか。お前、わかってるだろう。勝手にマスコミと話していることはチームのためになることか。お前一人のために迷惑をかけてはならぬ」
ベッケンバウアーにとってそれまでの人生でベストな日、彼はほめられると思っていたのに大目玉をくらった。
クラマーさんがきちんと教えたかったのは、「チームのためになることをやれ、チームのためにならないことをやるな、同僚に迷惑をかけることは絶対にやってはならない。単にサッカーだけでなく、人生にはけじめが大切だ」ということだった。
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クラマーさんとの会話(32) 「学校ではやらない」
中条 日本の子どもは、中学や高校でサッカーをやります。だから、どうしても体育になって進歩が遅い気がします。
クラマー ドイツでも、フランスでも、いまや西欧の国々では、学校ではサッカーをほとんどやらない。学校は勉学をするところだからだ。授業はたいてい午前中だけ。午後は三々五々好きなクラブへ行く。行きたくない者は行かなくてもいい。自由意志だ。
中条 授業は午前中だけですか。
クラマー そうだ。しかし、私のころは宿題が多かった。一刻も早く片付けようと、気ばかりあせった。そしてクラブ(ビクトリア・ドルトムント)へ急いで行った。
中条 やっぱりクラブがあってこそ、ですね。
クラマー そうだ。中央ヨーロッパやブラジルでも、サッカーの源流はすべてクラブだ。統計では60歳から65歳の年金生活者の男性の半分が、何らかの形で地元クラブの名誉会員になっている。つまりそれだけ地域とクラブは密接な関係にある。東京オリンピック前後、私は日本にもそんなクラブを作りたかったが、いつも滞在期間が短くて出来なかった。岡野、平木、長沼とはいつもそんな話をしていたのに、あの当時、やれなかったのは残念だ。
中条 日本にもJリーグができてクラブらしきものはできました。でも、高校サッカーとの関係はまだまだ微妙です。
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