7. 成田十次郎氏の努力
◆ケルン・スポーツ大学に留学
クラマーさんを招くに当たって、その仲介役を果たした成田十次郎の功績も忘れることができない。成田は東京教育大出身で日本代表候補にもなった、かっての名ウイングだった。
ケルンのスポーツ大学で「体育史」を学び、後に監督としてクラマー仕込みの指導力を発揮して、母校教育大を関東大学リーグで優勝させたこともある。
筑波大名誉教授であり、現在は県立高知女子大学学長。
ケルン・スポーツ大学は、有名なカール・ディームが創設し、日本では通称ケルン体育大学として知られている。正式名称はSporthochschule。ドイツ・サッカー協会は第二次大戦後間もなく、この大学に「指導者養成課程」を開設、ドイツ・サッカーの大御所ゼップ・ヘルベルガーが長く主任コーチをつとめていた。
ドイツのすべての監督コーチは一度はここで勉強しなければならないことになっている。この養成課程で指導者の資格をとった日本人も数多い。成田も「体育史」を学ぶかたわら、ここでサッカー指導者の資格をとった。
◆若くてヘコたれない人
話はさかのぼる。1960年3月終わりごろだった。日本蹴球協会の小長谷亮策常務理事から成田へ電話がかかってきた。小長谷は成田の大学の先輩だった。
「君は今度ドイツに留学するそうじゃないか。協会としてお願いがあるんだ。原宿の中華料理店にご足労願えないか。そこでいろいろ話すから」
成田が中華料理店に顔を出すと、竹腰重丸理事長と小野卓爾常務理事らが待っていた。竹腰理事長がこう切り出した。
「ドイツでサッカーの勉強をするのなら、応分の費用を蹴球協会で持ってもいい。その代わり、帰国したらサッカー界のために働いてほしい」
成田が「私はサッカーでなく、体育史を勉強するつもりです」と答えると、竹腰はこう言った。
「君もご承知のように、日本のサッカーは昨年ローマ・オリンピック予選で韓国に負けて重大な局面にある。4年後には東京でオリンピックが開かれる。そこで一大決心をして、ドイツから有能なコーチを呼ぶことにした。ドイツで、これはと思う人物を探してきてくれないか」
コーチの条件は、選手としての経験を持ち、日本代表選手といっしょに走り回ってもヘコたれない若い人。給料は20万円くらいしか払えないが、年1回クリスマス休暇に帰国する費用はこちらがもつ、というものだった。
すでにドイツからコーチを呼ぶ決心をしていた野津会長の意向を受けて、協会全体がここで実現に向けて具体的に動き出したわけである。
◆陸上競技の団長がツテ
成田は60年4月1日からケルン・スポーツ大学で学ぶことになった。だが、おいそれとサッカーへのツテがない。ところが、たまたま成田が、前年日本にやってきた西ドイツ陸上競技チームの通訳をやっていたのが縁で、復活祭(4月中旬)の休みに、チームの団長だったホルンバーガーが「家に遊びに来い」といってくれた。
団長のお宅にうかがって、そこで「実は、サッカーのいいコーチを探せ、と日本協会から頼まれているんです」と話した。
ホルンバーガーは「よーし、そんなこと、お安いご用だ」とばかり、すぐ横の電話をとってドイツ・サッカー協会にアポイントをとってくれた。そして、親切にも一緒にフランクフルトのドイツ協会につれて行ってくれた。
まさにとんとん拍子だった。そこでサッカー協会のバスラック事務局長に「コーチを招きたいこと」を話し、やがてバスラックからヘルベルガーに通じ、やがて成田はクラマーさんに会う最初の日本人になった。
◆バイスバイラーが強く推薦
「60年5月初めでした。私(成田)は大学の寮の部屋にいました。何の前触れもなく、突然ノックする人がいてびっくりしました。ドアを開けると直立不動の小柄な人が立っていました。頭が光っていたが、眼光の鋭さが印象に残りました。自己紹介された、その人がクラマーさんでした」
その後、成田はスポーツ大学関係はじめいろんな人からクラマーさんに関する情報を集めた。誰ひとりクラマーさんのことを悪くいう人がいない。
そのころ、ヘルベルガーの後を継いで「サッカー指導者養成課程」の主任コーチをやっていたバイスバイラーにも聞いた。すると「クラマーは優秀でいい男だ。ぜひ彼を日本に呼べ」と強く推薦してくれた。成田とクラマーさんとの交流が始まった。
◆クラマーさんとの交流
成田がクラマーさんのデュイスブルクの自宅を初めて訪問したのは、60年6月10日だ。その時、クラマーさんのサイン入りの著書3冊をもらった。そこに年月日を書いてくれたので正確に日にちを覚えている。
会話したり、その著書を読んだりしているうちに、クラマーさんは、いわゆる名選手ではなかったが、指導者としての熱意、純粋さとドイツ人らしい哲学があるのを感じた。その思いは交流の中で、ますます深まっていくばかりだった。
クラマーさんは「戦後、ヘルベルガー氏の指導を受けて、自分は選手としての道を打ち切って、指導者として生きる決心をした」と話した。その言葉の端はしに、ヘルベルガーを非常に尊敬していることがわかった。
成田は野津会長に何通もの手紙を書いた。その写しが、成田の手元に残っている。ドイツ・サッカーの実情、サッカー界あげての真摯な取り組み方、選手と指導者育成のシステムのすばらしさ、組織と人の大切さ、日進月歩で進歩する技術レベルについて行くための研究システムなどが実に克明に綴られている。
また、ヘルベルガーを頂点に、クラマーさんらが支えるがっちりした人脈もドイツ・サッカーの強味であること、も書いてあった。
成田は、野津会長に強くクラマーさんを推薦した。
野津会長がデュイスブルクのスポルト・シューレにやってきて、クラマーさんに会ったのは60年8月14日である。日本代表チームがやって来る5日前だった。成田は日本チームにつきっきりで通訳をつとめた。
野津会長は、例の有名な「物を見るのは精神である、物を聞くのも精神である」と書かれた額をみた時、心の底から絞り出すような声で「これだ、これなんだ」と、思わず感嘆の声をあげた。成田はその声をいまでもはっきりと覚えている。
この時、野津会長は「万難を排してクラマーを呼ぼう。日本サッカーを救うのはクラマーしかいない」と、最終的に決断したのではないか。
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1960年8月22日、訪独中の日本代表がクラマーさん宅を訪問。
右端が成田氏。左へ、クラマー夫妻、竹腰団長、クラマーさんのご両親、
高橋監督。後ろが平木主将。
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★ クラマーさんとの会話(7) 「バイスバイラーのこと」
中条 成田さんによると、クラマーさんが来日する前に、バイスバイラーが「ぜひクラマーを日本に呼べ」とかなり強く推薦してくれたそうです。
クラマー ウーンそうかな。バイスバイラーは若い選手を見る目がたしかで、ケルンで長く指導者養成課程の仕事をやっていた。だが、同時にボルシア・メンヘングラッドバッハの監督を勝手に兼任したりして、ちょっと問題になったこともある。ケルン、バルセロナ、NYコスモスなどの監督を歴任した。いい監督だった。
中条 バイスバイラーが日本にくる可能性はなかったのですか。
クラマー 彼は非常な現実主義者だ。だから実戦向きで、監督として成功した。だが、あきっぽいところがある。考えもコロコロ変わった。成功しても、選手からの悪口は絶えなかった。たぶん日本に行っても、グラウンドは悪いしボールも重いなどと、文句を言って途中で投げ出したのではないか。ヘルベルガーにはバイスバイラーを日本へ、という発想はまったくなかったと思う。
ヘルベルガー代表監督の後継者は4人いるといわれた。フリッツ・ワルター、シェーン、クラマー、バイスバイラーだったが、結局シェーンが代表監督になった。現実主義のバイスバイラーがクラマーの日本行きを強く推薦した話は面白い。
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