23.
プレ・オリンピック
◆西ドイツに勝ちたい
東京オリンピックの前年1963年に話をもどす。
日本代表は6月の西ドイツでの合宿・試合の後、8月のムルデカ大会で思いもかけない2位という好成績をあげた。勢いを得た日本代表の次の目標は、10月の東京国際スポーツ大会(プレ・オリンピック)で、西ドイツ五輪代表(アマチュア)をやっつけることだった。
その西ドイツ五輪代表は、後に代表監督として74年ワールドカップで優勝するヘルムート・シェーンに率いられていた。6月に、日本と対戦する2週間前、10カ国が参加した欧州アマチュア大会で1次リーグを1位で突破、スコットランドとの決勝では前半2−1とリードしながら、後半逆転され準優勝に終わっていた。
欧州アマチュア・サッカー界では間違いなくAクラスだった。
前にも紹介した通り、6月に日本代表はこの相手に0−4(0−1)で大敗していた。デュイスブルクで合宿中であり、遠征の初戦のせいもあって日本は集中力を欠いていた。前、後半とも開始3分に、サッカーでいちばんやってはいけない立ち上がりの失点をしてしまった。
さらに不運のPKを与え、終了5分前に加点されるなど、クラマーさんが「時期はずれのクリスマス・プレゼントを2つ、おまけにPKまでも差し上げてしまった」と苦笑するほど、拙い試合運びだった。
日本は前年12月の3国対抗以来、半年も国際試合から遠ざかっていた。西ドイツは直前まで場数を踏んでいた。この差が出た。また合宿地デュイスブルクからバスに揺られて試合地ジーゲンまで約4時間もかかったことも不利の材料にあげられた。
つまりは国際試合を多く重ねること。どんな状態にあってもコンディションを整えておく努力すべきこと。アウェイ試合では、当たり前の教訓を思い知らされたわけだ。だからこそ、プレ・オリンピックでのホーム・ゲームでは雪辱できないまでも互角に戦っておきたい相手だった。
◆「勝てない相手ではない」
長沼監督と岡野コーチは「勝てない相手ではない」と、ひそかに作戦を練っていた。「先の試合はスコアの上では0−4と完敗だが、内容は互角だった」とみていた。後半は体力が落ちて西ドイツが押し気味だったが、前半には惜しいチャンスがたくさんあった。
観戦していたクラマーさんの恩師ヘルベルガーは「日本の中盤はまずまずだが、それ以上に学ばなければならないことがある。それはいかに得点をとるかだ」とアドバイスした。得点をとるべきところで、とっておかなくては負ける、これもサッカーでは鉄則だ。
日本代表は大敗したのち、ドイツ各地のジュニア代表と4回対戦したが、いずれも勝てなかった。だが、その後オーストリア、デンマークに転戦、次いでムルデカ大会に参加し、合計11試合をやって8勝1分2敗と安定した成績を残した。
6月5日から8月18日までの間に、西ドイツでの試合を含め16試合をこなした。単純計算では、5日に1試合をやったことになる。クラマーさんが「試合が最大の勉強」と言うように、勝っても負けても、これだけアウェイ・ゲームをこなせば、選手同士の気心も判り、国際試合のコツが掴めないはずはない。
かくして、日本代表はかなりの自信を持ってプレ・オリンピックに突入する。
◆南ベトナムを招待
プレ・オリンピックには、西ドイツ五輪代表のほか、南ベトナムが招待された。日本から代表AとBが参加し、4チームのリーグ形式で行われた。
西ドイツはシェーン監督に率いられた6月とほぼ同じ顔触れ。
南ベトナムは選手権者の税関チームに陸軍から補強し、8月のムルデカ大会では4位だった。だが、優勝した台湾と引き分けており、アジアではAクラスといっていい相手。
日本Aは、西ドイツ遠征とムルデカ大会に参加したメンバーで固め、1年後の東京オリンピックを想定したチーム。
Bは若手中心、活躍次第ではAに引き上げられる可能性を持ったチーム。1年前にソ連に遠征したBチームにいた釜本は、この時もまだBチームにいた。
◆西ドイツに初めて勝つ
プレ・オリンピックでの日本同士のAとBの試合は、Aチームが八重樫、渡辺を休ませたのに対し、Bチームは首脳部に認められるチャンスとばかり張り切って3−1で勝った。1敗した日本Aは優勝できなかった。
だが、最終日に西ドイツに1−1(1−1)で引き分けた。メンバーは6月に対戦した時の右FB平木の代わりに、片山を起用しただけのほぼ同じ顔ぶれだった。西ドイツの攻撃の切り札は、中盤のノイザーから、左ウイングのキルヒナーを走らせての縦パスだった。これを封じて日本の守備が安定した。
大会後の10月20日、京都の西京極で行われた西ドイツとの親善試合で、日本代表は初めて勝った。スコアは4−2(1−1)という堂々たるものだった。メンバーは6月の顔ぶれに、東京での試合同様、平木の代わりに片山を、さらに継谷の代わりに小城を起用、と2人代えただけだった。
◆殊勲者は片山選手
クラマーさんは3度目の来日をしていた。「西京極では、親善試合だったし、ひょっとしてドイツは力を抜いていたのではありませんか」という私の質問に対し、
「とんでもない。ドイツの選手も全力をつくしていた。試合後、シェーン監督が日本のベンチにやってきて、日本選手のラフプレーにやられてしまったと悔しそうに怒鳴っていた」
「殊勲者は片山洋だった。彼は60年以来デュイスブルクに来ているが、頭がいいし理性で動く男だ。ドイツの俊足左ウイングを完璧に押さえた。足は速くなかったがクレバーだった。相手の動きを読んでいた。能面のようなポーカーフェイスで当たって、相手の戦意を喪失させた。頭で理解し、それを実行する力を持っていた。片山は、いつでもどこでも使いたい選手である」
応援した約2万人の観衆は大喜びした。翌日の各新聞は「ベルリン・オリンピックで、日本がスウェーデンに勝って以来の23年目の輝かしい勝利」と書いた。
だが、岡野コーチは「お互いに3戦目なので、手の内はわかっていた。それだけに日本選手は『今度こそ、勝ってみせる。それだけの力は十分持っているのだ』という自信があった。その自信が勝利に導いてくれた。みんな勝って当たり前くらいに思っていた」
大会後、ドイツに帰国したクラマーさんの身辺に変化が起きた。長年勤めたデュイスブルクのスポルト・シューレの主任コーチをやめ、西ドイツ協会に入ってコーチ陣に加わり、1966年イングランドW杯の準備にあたることになる。
仲間と談笑する(右から)クラマーさん、片山、船本選手。(提供:クラマーさん) |
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クラマーさんとの会話(23) 「アジアを2つに分けろ」
中条 東南アジアは昔ほど強くない。アジアの将来の強敵は?
クラマー イランだろう。アジア大会でも、日本が強かった時も勝てなかった。体が大きくて強い。古い文化を持ち、一種の規律がある。軍隊があるので規律はきびしい。アレキサンダー大王時代からの歴史と誇りを持っている。論理的に考えることも出来る。国民の誇りの有無はサッカーの強さに大きく影響する。歴史に誇りがある、という点ではエジプトも同じだ。
中条 アジアは広くて予選がたいへんです。
クラマー 岡野とも話したが、アジアは2つに分けるべきだ。アラブ、イスラエル、トルコ、そしてイスラム圏はアジアではない。どちらかと言えばアフリカに近い。イスラムの人たちはアラブの国に国籍を変えることができる。日本や韓国、中国など東アジアとは違う。別にした方がいい。
中条 オーストラリアは?
クラマー 日本の強敵になるだろう。だが、オーストラリアもアジアではない。体がいいし、もともと欧州からの移民だ。一定期間いいトレーナーがつけば見違えるように強くなるだろう。ニュージランドにはスコットランドのコーチがついていた。彼らもオーストラリア同様強くなるだろう。
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