30.
ヘルムート・シェーン監督
◆東西ドイツに分裂
1945年、第二次大戦で敗戦国となったドイツは、4地域に分割され、戦勝国の米、英、仏、ソ連(当時)の4カ国に統治された。
例えば、前に紹介したように、クラマーさんが捕虜として収容所に入れられたニーダーザクセン州のエスターベーゲンは英連邦軍の統治地域で、釈放状をくれたのはカナダ兵だった。
49年に、東西両ドイツが分裂国家として独立する。米、英、仏占領地域が西ドイツに、ソ連占領地域が東ドイツになった。
再びドイツとして統一したのは40年以上も経た1990年で、それまで別々の独立国家として歩んでいた。
東西ドイツは、政治体制とともにスポーツに対する考え方も違っていた。
西ドイツは西欧の国として自由を謳歌していたが、東ドイツのスポーツは国威宣揚の場だった。書記長のホネッカーのお声掛かりで、いわゆるソ連・東欧方式の国家選手として選手強化につとめ、オリンピックなどでメダルを獲りまくった。だが、ドーピングの噂が絶えないなど、なんとなく権力機構の圧力を感じさせる窮屈な印象が拭い切れなかった。
◆東ドイツ出身のシェーン
ヘルムート・シェーンは1915年9月15日、のちに東ドイツの中心都市になったドレスデンで生まれた。クラマーさんが「彼は背が高く、ファイターではなかったが、すばらしいテクニックを持ったドイツ有数のフォワードだった」というように、ユースのころ36年ベルリン・オリンピックに代表候補に選ばれるほどだった。
オリンピックには膝の故障で参加できなかったが、その後、名門ドレスデンSCで活躍し、22歳のとき代表選手に選ばれた。もちろん第二次大戦前のことだが、5年間に国際試合に16試合出場し17得点を挙げるというすごい記録を残している。
第二次大戦後、30歳になったシェーンは一時はソ連占領地区の選抜チームの指導を任されるほどだった。だが、ことごとに上から干渉される雰囲気に、やはり圧迫感と身の危険すら感じていたようだ。東ドイツが建国した直後の49年暮れから50年2月にかけて、ケルンのスポーツ大学のヘルベルガーの講座でコーチ研修を受け、S級の資格を得た。そのころは、東西間をまだ比較的自由に往来できた。
彼もまたクラマーさん同様、ヘルベルガーを恩師と仰ぐことになったわけだ。
その直後、シェーンは夫人と息子とともに、自ら運転する自家用車でベルリン経由で西ドイツに移った。途中に東ドイツの歩哨に呼び止められるなど、スリルあるギリギリの『脱走』だった。
◆ザールランドの監督に
やがてシェーンはフランス国境に近いザールランド・サッカー協会と1FCケルンから監督にならないかと声をかけられる。彼はザールランドを選んだ。これが大正解だった。
そのころザールランドは独仏両国間の帰属をめぐってもめており、一時的に小さいながら独立国扱いだった。57年に住民投票によって西ドイツに編入されたが、それまでFIFAやIOCにも加盟し、1952年ヘルシンキ・オリンピックに選手団を派遣した。また、54年スイス・ワールドカップ予選にも出場している。
ワールドカップ予選では、恩師ヘルベルガー率いる西ドイツとノルウェーと同じ組に入った。最初のノルウェーとのアウェイを3−2(前半2−2)で勝ち、ホームでは0−0で引き分けた。
ヘルベルガーの西ドイツは、本大会でハンガリーを下し『ベルンの奇跡』を起こしたチーム。予選での師弟対決は、アウェイで0−3(前半0−1)、ホームで1−3(前半0−1)と、ザールランドが連敗したが、意外な善戦に、シェーン監督の名声はおおいに上がった。監督としても大きな転機になった。
西ドイツに編入されたザールランド・サッカー協会は、西ドイツ・サッカー協会(DFB)の下部組織として1地方協会になるとともに、シェーンはDFBのコーチとして、ヘルベルガーのアシスタントをやることになった。それが、64年にヘルベルガーの後を継いで代表監督に昇格する伏線になった。
◆日本との縁
驚くのは、53年8月ドルトムントで開かれた国際学生競技大会(現在のユニバーシアード)で、戦後初めてヨーロッパ遠征を敢行した日本の学生選抜チームが、独立国としてのザールランドと対戦していることだ。日本学生が7−1(前半1−1)で大勝している。
記録によれば、この試合は8月12日にドルトムント近郊で行われている。また、ワールドカップ予選初戦のノルウェーとの試合は同月25日オスロでやられている。学生代表とワールドカップ代表の違いがあるとはいえ、シェーンが日本学生チームを見ていた可能性がないとはいえない。日本チームには、のちにクラマーさんの下で日本代表監督とコーチになった長沼健と岡野俊一郎も学生選手として参加していた。
シェーンは63年に、東京で開かれたプレ・オリンピックに、西ドイツ・アマチュア選抜の監督として参加している。日本代表とは東京・国立競技場では1−1の引き分けだったが、大会後の京都・西京極での親善試合では、日本が4−2で勝った。当時、日本がヨーロッパの強豪に勝ったのは戦後初めて、と大いに喧伝されたものだ。シェーン監督は「日本選手のプレーは汚い」と、クラマーさんがいる日本ベンチに文句をつけにきたと伝えられる。シェーンは日本とは意外な縁があったといえよう。
◆66年ワールドカップ予選へ
1964年6月、西ドイツ代表監督になったシェーンの最初の重大な国際試合は、66年ワールドカップ・イングランド大会の予選だった。西ドイツはヨーロッパ予選グループ2に属し、相手はスウェーデンとキプロスだった。その第1戦は64年11月4日ベルリンでスウェーデンとの間で行われた。
クラマーさんはヘルベルガーの指令で、シェーン監督のアシスタントを務めることになっていたが、東京オリンピックが終わって、日本協会が『さよならパーティ』を開いたのが10月25日。クラマーさんは急遽帰国したが、スウェーデンとの試合まで10日間もなかった。
いろんな原因があったのだろう。西ドイツはスウェーデンに対し、先制しながら同点に追いつかれ1−1で引き分けてしまった。
さぁ大変。この予選グループのキプロスは弱くて問題にならず、スウェーデンだけが相手だった。地元ベルリンでの引き分けは敗戦にひとしい。
試合を観戦するクラマー(中央)とシェーン(右)。(提供クラマーさん)
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ドイツは戦時中を除いてワールドカップにずっと参加している。翌65年9月26日、ストックホルムで行われるアウェイ試合で、もし負ければ歴史始まって以来の屈辱になる。石にかじりついても勝たねばならない。しかも、ドイツは1911年以来、アウェイでスウェーデンに勝ったことがない。
瀬戸際に立たされた西ドイツ。この大ピンチを救ったのが、クラマーさん子飼いの若きフランツ・ベッケンバウアー、20歳だった。
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クラマーさんとの会話(30) 「若い選手が育たない?」
中条 日本代表もJリーグも、目前の勝利をねらって経験ある選手を起用しがちです。古い選手はプロですから生活のためトコトン頑張る。それが、いまの日本全体を老化させているような気がします。ドイツ・ワールドカップでも、いちばん若い日本代表は24歳、あとは25歳以上でした。
クラマー 25歳以上が多いことは、ある程度理解できる。なぜなら若返りを図りながら強い代表を作るには4年間は短いからだ。もっと長期計画が要る。ヨーロッパでも2年毎のワールドカップと欧州選手権の両方に好成績をあげるのがむつかしくなりつつある。国内、国際とも試合過多だ。どこかで、どちらかに重点を置くか、決断しなくてはならない時がある。
中条 いまのオシム監督は、近い将来をみないでくれと言っているが、結局起用するのは経験ある選手です。
クラマー アジアカップで、日本はどうしても勝たなくてはならぬものなのか。それを聞きたい。
中条 負ければ、日本はアジアでも駄目か、とファンが許してくれない。
クラマー ここは、アジアカップはワールドカップのスプリングボードにすべきである。そして若い素質ある逸材を探し、育てなくちゃ。東京オリンピックでは、みんな若かった。彼らを4年間以上鍛え、経験を積んだから、メキシコのチームができたのだ。
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