(47)日本人のやさしさ
◆近い目標と遠い目標
話はやや前後するが、日本が1968年メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲った翌朝、クラマーさんは選手村食堂で、日本協会の竹腰理事長らと、どんなことを話し合い、どんなアドバイスしたのだろうか。ここは、もう少しくわしくクラマーさんの話を聞くしかない。
「私が、あの席でまず強調したのは、サッカーの世界でも、人生でも、常に近い目標と遠い目標を設定することが大切だ、ということだ」
FIFAコーチとして熱弁を振るう
クラマーさん。 (提供:クラマー) |
「日本のサッカー関係者は、私が日本に来る前に、ワールドカップに対しどんなイメージを抱いていたか知らないが、私としては、オリンピックで好成績を挙げたのだから、次はワールドカップをめざすべきだ、と説いた。常にオリンピックとワールドカップを、2年おきに近くの目標をおいて、いいリズムで発展させていく。これが最もロジカルなやり方だ」
「当然、日本の最も近い目標は、70年ワールドカップのアジア予選突破であった。それには、何をすればいいのか。みんなで考えよう。そして次は72年のミュンヘン・オリンピック。次は74年ワールドカップだ」
「そこでアジア予選だが、どの選手が実力的に峠を越えているからもう使えないかを見きわめ、それなら代わりにどんな若い選手をつれてくればいいかを考えなければならない。いなければ探し、早急に育てなくてはならない」
「アジア予選をソウルでやることも、期日も、何カ国が参加するかもすでに判っている。それまで何回くらい選手を招集して、いつ合宿をするのか。練習試合はどうするか。もう一度ヨーロッパへ遠征するべきか、具体的なことを決めよう」
「メキシコの栄光は終わった。ヘルベルガー流に言えば、次の試合開始のホイスルは、すでに鳴っている。前向きに、不断の努力を怠ってはならない」
◆確固たる地位を築け
「遠い目標とは何か。それは世界のサッカー界で、日本が確固たる地位を築くことだ。この場合、メダルを獲ったとか、単発の試合に勝ったということに一喜一憂することはない。代表チームの永続的かつ計画的な強化とともに、トレーナーの育成組織の確立、国内リーグのレベルアップ、ハード面の充実などをしっかりやっていかなければならない」
「日本には68年まではトレーナー育成組織はなかった。検見川でのFIFAコーチングスクールをやって、ようやく一歩を踏み出した」
以上のようなクラマーさんのアドバイスに拘わらず、検見川で見た日本代表は大幅にレベルダウンしていた。クラマーさんが心配したとおり、70年ワールドカップのアジア予選を突破できなかった。
代表監督が長沼から岡野、また長沼と続き、二宮寛、下村幸男、渡辺正、川淵三郎、森孝慈、石井義信、横山謙三ら、いろんな元有名選手に目まぐるしく交代した。オリンピックは96年アトランタ大会まで28年間も待たなければならなかった。ワールドカップ本大会に初出場できたのは世紀末に近い98年フランス大会だった。
◆厳しさ不足の日本人
なぜこんな長い停滞が続いたのか。これも、クラマーさんの話を、ただじっくりと聞くしかない。
「長沼監督、岡野コーチは非常に優れた指導者でありながら、どうしてこうなったのか。検見川以後も、抜きん出た新しい選手の片鱗も、育つきっかけさえも見えなかった。考えられる理由の一つには、厳しさが不足していたからではないか」
「指導陣は、もっともっと厳しくあるべきであった。厳しさを学ぶことは容易ではないが、チームを成功に導くためにはアメだけを与えるのではなく、時には鞭も使わねばならない」
「いや、これは長沼、岡野だけの問題でない。野津会長を含めて日本サッカー界全体の問題だ。日本人のやさしい性格、欠点を追求できない美徳、罰することを嫌う伝統のようなものが災いしていたのではないか。私のみるところ、歴代の代表監督を含め日本の指導者はあまりにも紳士的すぎる。私は外国人コーチだったので選手に厳しく接し、厳しく行動することが、特例とし認められたのだと思う」
◆美徳がマイナスに
「日本人は世界でも珍しい文化と国民性を持っている。克己心があり、ていねいで、礼儀正しく、優しい。とくに先輩・後輩のタテ社会の地位がはっきりしていて、年長者に対して礼儀正しい。美徳といってもいい。だが、それら美徳が障害になっている」
「私が長沼から学んだことは、私が時々厳格すぎたということである。私が初めて日本に行った35、36歳のころは、今よりもっと厳しかった。だが、時が経って円満な長沼から、自分を制御することを学び、あまり厳し過ぎるということがなくなった」
「しかしである。どうしても厳しくしなければならないことがある。そういう時に日本人の監督は、おしなべて弱点を露呈してしまう。日本の監督は叱責すると選手がメンツを失うのではないかと危惧するが、サッカーに関して叱責しているのであって、選手の人格を攻撃しているのではない」
◆68年はチャンスだった
「この履き違いを、私は長沼によく指摘した。日本人にとっては、日本的なメンタリティーや慣習で、そこを割り切ることが非常に難しいように私は思う。その点、企業に所属しアマチュア選手ゆえに、いろいろ神経を使わねばならぬ長沼や岡野は気の毒だと同情している」
「だが、古い選手はやがて引退するだろう。竹腰さんら長老はもう何もやれないだろう。だから長沼や岡野ら若いリーダーは、メキシコ銅メダル後、日本が進むべき方向を強く示すべきであった。この二人はインテリだ。しっかりと自信を持って教えていけば、ちゃんとしたチームが作れたはず。作らねばならなかった。そして、68年にはサッカー・ブームを来させるべきチャンスであった。いま思い出してもくやしい」
「Jリーグの練習も何度も見た。多くの監督は強さ、厳しさが足りない。リーダーシップの欠如している人が多い。実例を挙げよといわれたら、いくらでも挙げることができる。強い言い方かもしれないが、長沼はそのあたりよく分かっているはずだが、いかにも優しすぎる。岡野は合理的な人だが、やはり厳しさ不足だ。日本の美徳に災いされている。礼儀やていねいさとサッカーは関係ない。もっと素直に自分を表現し、先輩を乗り越えていくべきなのに、メキシコの遺産をいつの間にか食いつぶしてしまった」
クラマーさんは、日本の関係者が気分を悪くするようなことまで、率直に語る。だが、メキシコ後の20年を越える国際的な大停滞が、事実だったのだから仕方ない。
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クラマーさんとの会話(47)(96年当時) 「私を利用してほしい」
中条 長い停滞期に、いらいらしたファンから新聞や機関紙に「クラマーさんを再び招いて教えを乞え」という投書がありました。オファーがあれば、クラマーさんは日本に来ましたか。
クラマー アトランタ・オリンピックの出場権がとれて、日本の関係者はホッとしているようだが、ここ数年来、私は日本から指導依頼の問い合わせがあるのを待っていた。だが、私はクラマーで、あなた達よりうまく指導ができるという印象を与えてしまうのはいけない。こういう場合、私の方からは話を持っていけないものだ。
中条 あっ、そうですか。
クラマー 時間に余裕はあまりないが、数カ月でも来てくれないかというような問い合わせがあったら、日本が停滞していることは私にとっても残念なことなので、代表の合宿に合わせて出掛けて行っただろう。
中条 本当ですか。
クラマー 日本に行くチャンスとしては74年にもあった。78年にもあったかもしれない。私の仕事の節目節目にチャンスがあった。85年にもあったよね。
中条 バイエルンの監督などやられて高給をとっておられたので、日本は貧乏だったから、声がかけられなかったのだと思います。
クラマー お金? お金など関係ない。友人と友人の間の問題だ。
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