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目次
1. 1960年からの友情
2. 日本は強くなると思っていた
3. 野津謙会長の功績
4. スポルト・シューレ
5. 落下傘兵だった
6. 来日のいきさつ
7. 成田十次郎氏の努力
8. ドイツでの最初の練習
9. 初めて日本に来たころ
10.日本リーグ構想の萌芽
11.クラマーさんへの反対
12.クラマーさんの分析力
13.2度目のドイツ合宿
14.地方に種を蒔く
15.両親の死
16.1962年アジア大会の惨敗
17.長沼−岡野コンビの誕生
18.新体制への布石
19.対外試合の成果
20.ムルデカ大会と日本
21.若い力の出現
22.コーチになった経緯
23.プレ・オリンピック
24.クラマーさんはスパルタ式
25.いよいよ東京五輪へ
26.五輪代表が決まった
27.東京オリンピック始まる
28.さよならパーティ
29.ヘルベルガーの後継者
30.ヘルムート・シェーン監督
31.フランツ・ベッケンバウアー
32.フランツ・ベッケンバウアー(続き)
33.リベロの誕生
34.1966年W杯予選
35.1966年W杯イングランド大会
36.世界を飛び回る
37.日本リーグの錦の御旗
38.実力を上げる日本代表
39.日本開催の決断
40.メキシコへの道
41.メキシコの花が咲く(上)
42.メキシコの花が咲く(下)
43.世界選抜チーム監督に
44.ペレのすごさ
45.コーチング・スクール
46.無駄になったアドバイス
47.日本人のやさしさ
48.熱烈な提言
49.アメリカ監督に就任
50.FCバイエルンの監督に
51.ヨーロッパ・カップに連勝
52.ベッケンバウアー米国へ
53.サウジアラビアの監督
54.レバークーゼン監督に
55.韓国で五輪代表監督
56.中国で5年間指導
57.日本への思い−最終話
 
 

クラマー夫妻と筆者
2002年W杯のときに来日した
クラマー夫妻と筆者(右)

中条一雄 (ちゅうじょう かずお)
朝日新聞記者(1953年ー86年)、早稲田大学人間科学部講師(87年ー96年)、ワールドカップを74年西ドイツ大会から8回取材。
著書「おおサッカー天国」「サッカーこそ我が命」など。
「今回、新聞記者時代からの友人牛木素吉郎君のおかげで、ビバ!サッカーのホームページに「クラマーの話」を連載させていただけることになり、たいへんよろこんでいます」

 クラマー取材ノートから

(54)レバークーゼン監督に

 

◆2部落ちの危機救う

 82年3月、ギリシャにいるクラマーさんにバイエル・レバークーゼンから電話があった。バイエル製薬会社のスポーツ担当のギュンター・ベッカーからで、「あなたに重大な頼みがある」という。彼は元レバークーゼン選手で、クラマーさんが西地区トレーナーをやっていたころから知っている仲だっだ。

 頼みとは「いまわがチームが2部落ちの危機にさらされている。助けてほしい」というものだった。

 「レバークーゼンはここ5年ばかり1部にいるが、いつも下位でウロウロしていてパッとしない。とくに今年はビリから3番で、入れ替え戦をやらねばならなくなった。相手は2部3位のオフェンバッハ・キッカーズで相当強そうだ。何とかしてほしい」

 クラマーさんは、レバークーゼンの若手にいい選手が何人かいるのを知っていたので、「なんとかしましょう」と答え、とりあえず入れ替え戦のホームとアウェイの2試合だけをみることにした。

 ところが、たいへんきびしい入れ替え戦になった。敵地の第1戦を0−1で負けてしまったのだ。だが、クラマーさんは例によってオフェンバッハの戦い方をじっくり観察していた。その弱点や個人の特徴などを基に、各選手に克明に指示を与え、第2戦にのぞんだ。何とか2−0で勝って2部落ちをまぬがれた。


◆思い切った新陳代謝

 82年6月スペインでワールドカップがあった。クラマーさんはFIFAの技術関係の仕事を任されていた。そこへ、またレバークーゼンから電話がきた。

 「1部に残留できたので、監督をやってほしい」
 「ワールドカップの仕事がすんでからでいいのならやりましょう」

 こうして、クラマーさんは82年開幕から84−85年シーズンが終わるまでの3年契約で監督をやるこにした。

 「ただし」と、例によってクラマーさんは条件を付けた。「全権をいただきたい。これはいくら報酬がもらえるかといった話とは関係ない。全権がないなら引き受けかねる」

 サウジアラビアとの契約で、金額の欄が空白だった時にも出したのと同じ条件だった。監督をやるからには、どんなチームを作るかというイメージを描かねばならない。そのイメージに基づいて、それにふさわしい選手を補強し、要らない選手はやめてもらう。それをやる権限が監督にないのなら死んだと同様だ。

 クラマーさんの「監督」というものへの一貫した考えは、「成功の見通しがないのなら、いくら金をもらっても引き受ける意味がない。1日10時間働いても成功がなければ駄目だ。1日中ボーッとしていても金が入るのはなお耐えられない。成功に勝る宝なし。人生は短いのだから譲れないものは譲れない」

 こうして全権をもらったクラマーさんは早速、選手集めにかかった。まず攻守のカナメになる選手を配置することだった。攻撃にヘルベルト・バース(19歳)を、守備にヘルムート・ビンクルホーファー(21歳)を連れてきた。バースは90年までレバークーゼンで働き、後にハンブルグやドレスデンでプレーしたいい選手だった。ビンクルホーファーはバイエルン・ミユンヘンから引き抜いた。バイエルンでは出番がなかったが、レバークーゼンで非常に上手になった。85年にバイエルンのGMヘーネスの要求で、再びバイエルンに帰り、代表選手になるほど成長した。


◆車範根を雇う

 大きかったのは親会社の製薬会社に協力してもらい韓国の車範根を得たことだった。

 クラマーさんが車にはじめて会ったのは68年に韓国でコーチング・コースを開いた時で、そのころからズバ抜けた力を見せていた。その後、ドイツ2部のダルムシュタット(フランクフルト近く)に入ったが、うまくいっていなかった。おまけに、彼の妻が家屋売買の詐欺にあって全財産を失って困っていた。レバークーゼンの会長に助けられレバークーゼンにやってくることになった。

 車は、クラマーさんがいた3年間、さらに次のエーリッヒ・リベック監督の3年間、あわせて6年間、レバークーゼンの主力選手として活躍した。

 「車は強靭で足が早く、ヘディングが強くて、練習中もまったく気をぬかない。考えられる欠点が一つもない頼りになる選手だった。彼は真のプロである」

 「ある時、車がひどい反則を受けて大ケガをして病院に運ばれた。それで私が『今度、あの反則をした男に会ったらどうする』と聞いたら『私はクリスチャンです。そんなこと忘れます』と答えた。それほど、おだやかな人間である」

 「私の勧めで、彼は選手時代に6週間のA級トレーナー・コースを受け、その後スポルト・シューレで1年1カ月の教育を受けてドイツのライセンスを取得した。韓国では指導者として代表監督をやったり、800人が通うジュニア・スクールを任されたり、CMに出たりと活躍している。私が韓国へ行けば、必ず出迎えてくれて『あなたを助けることがあれば何でもします』と大歓迎してくれる」

 またクラマーさんは暇を見て、小学校、中学校、高校で講演した。若い素質ある選手がいないものかと常に目を光らせていた。


◆選手18人を入れ替え

レバークーゼンのサポーター
親会社のバイエル製薬のマークを真似てデットマールとダンケのプラカードを振りかざすレバークーゼンのサポーター。(提供:クラマー)

 こうして1、2年間で24人いたメンバーのうち18人をクビにし、18人を補強した。レバークーゼンは、ほぼ新しいチームに生まれ変わった。

 クラマーさんは、本当はいっぺんにチームを改造したかった。だが、財政のしめつけは意外に厳しく、会長や理事会に細かくチェックされた。18人の選手入れ替えはギリギリの妥協でもあった。また選手契約に法律的な問題もあったり、ケガが多い選手は一気にクビを切ることができず、トレーナーの口を探してやったり、よく話し合って一度国に帰して2年間トレーニングさせ、また呼び戻すようなこともやった。

 「監督は、現場での選手個人のいろんな事情を考えてやらなくてはならない。ある時は恩情を発揮し、ある時は冷酷にならなければならない。それに今の時代は金という面倒な要素が大きく絡んでくる」

 「優れた選手を2人連れて来る。だが、その2人がいいコンビかどうか分からぬ。11人のマラドーナがいても勝てないのがサッカーだ。チームづくりはオーケストラと同じ。一人一人がいかに優秀でも、互いのコンビが重要だ。勝手に演奏したらバラバラだ。監督はいい指揮者、まとめ役であらねばならぬ」

 クラマーさがレバークーゼンにいた3年間のブンデスリーガの成績は、83年から85年まで11位、7位、13位と、あまり振るわなかった。だが、徐々に力をつけていた。次のリベック監督の時には、86年から88年までブンデスリーガで、6位、6位、8位とレベルアップし、88年にはUEFAカップに優勝した。リベックは後にドイツ代表監督に就任した。

 85年のシーズン後、3年契約を終えたクラマーさんは、60歳になった。今度こそ、サッカーから手を引こうと思ったが、そうはいかなかった。


★ クラマーさんとの会話(54) 「見たワールドカップは」

中条 スペインでの82年ワールドカップの時は、メディアセンターでよくお会いしましたね。

クラマー FIFAは66年に「テクニカル・スタディ・グループ」を作った。私は66年は西ドイツ代表監督のアシスタントだったが、次の70年以降FIFAのメンバーとして、ずっとワールドカップを見ている。82年レバークーゼンに、入れ替え戦だけ面倒を見ようと言ったのは、ワールドカップがあったからだ。

中条 最初に見たワールドカップは。

クラマー 50年ワールドカップだ。98年を除いて全部現地で見ている。アメリカが1−0でイングランドに勝った試合も見た。

中条 98年は、なぜ。

クラマー あの時は中国で指導者養成の仕事をしており、ちょうど重要な検定試験にぶつかって、どうしても離れられなかった。FIFAのメンバーになれば 大会がすんだらテクニカル・レポートを出さねばならない。2002年も、もちろんレポートを書いた。

中条 メキシコで日本が銅メダルを獲った時もオリンピックのレポートを書かれましたね。

クラマー そうそう、レポートを書いたのは、あの時が始めて。試合のことだけでなく高地で球が速いこと、医学的、暑さなどレポートした。このレポートはFIFAニュースに載り、世界各国にとって次の70年メキシコ・ワールドカップに大いに参考になったはずだ。


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