21.
若い力の出現
◆アジア・ユース大会開く
1958年8月、独立1周年を記念してムルデカ大会を始めたマラヤ(当時)のラーマン首相は、もう一つ大きな功績を残した。それはアジア・ユース大会の創設にも力をつくしたことである。
1958年5月、アジア競技大会(東京)の期間中に開かれたアジア・サッカー連盟(AFC)総会で、ラーマン首相はAFC会長に選ばれた。日本協会から野津会長がAFC副会長に、市田左右一常務理事がアジア代表のFIFA理事(1名)に就任した。
東京で、この3人を含めたAFC幹部の間で、真摯に話し合われたのは「レベルの低いアジアのサッカーが、欧州や南米に追いつくにはどうしたらいいか」ということだった。
そして、「若い人たちの大会を開こうではないか」という考えで一致した。早速、8月の第1回ムルデカ大会(日本は不参加)の折りに、クアラルンプールで開かれるAFC理事会で具体化を図ることになった。
同理事会はラーマン会長の主導で、参加を20歳以下にする、毎年春開催する、開催地は加盟国持ち回りとする、優勝チームにはラーマン杯を贈る、1959年4月初め、マラヤの首都クアラルンプールで第1回大会を開く、などが決まった。
◆高校選抜を派遣
日本協会は、最初どんなチームを派遣するかに苦慮した。
20歳以下は大学の1、2年生や実業団の若手が含まれる。だが、当時はアマチュアで、各チーム内の若い選手だけを引き抜いて連れて行くことは、技術的にかなり困難だった。あまり豊かでない日本協会は派遣費を選手の出身母体や地方協会に負担してもらうしかなかったこともあった。
結局、思い切って現役の高校生から選抜することになった。その方がまとまりやすいし、全国高校選手権や国体で選ばれた優秀選手を集めて合宿練習をやり、そこで18人の代表を決めるのは、手続き的にもむつかしいことではないと思われた。
全国高校体育連盟(高体連)は乗り気だった。海外遠征は教育的な価値があるし、高校選手に夢を持たせる。これは大きな利点だった。日本協会は、もちろん若い選手の発掘、育成に役立つから大賛成だった。高体連から選手団の団長を出し、監督以外の役員に高校の先生を同行させることになった。
結局、毎年、日本協会の監督が同行する高校選抜が、日本ユース代表として次のように派遣された。心配は、高校生は18歳以下だから、外国にくらべて2歳のハンディがあることだけだった。
◆各大会の開催地と監督
第1回(1959年)クアラルンプール(高橋英辰監督)
第2回(1960年)クアラルンプール(岩谷俊夫監督)
第3回(1961年)バンコク(岡野俊一郎監督)
第4回(1962年)バンコク(水野隆監督)
第5回(1963年)ペナン・マラヤ(水野隆監督)
第6回(1964年)サイゴン(浅見俊雄監督)
第7回(1965年)大会は、初めて東南アジアを離れ、東京で開かれた。地元なので派遣費用は要らないし、ムザムザ負けることもできないと、平木隆三監督のもと、高校時代から活躍の目立つ大学生(15人)と社会人(3人)で固め、この時だけ現役高校生は選ばれなかった。
◆釜本が代表を辞退
実際的にはベストな高校選抜チームを選ぶことは意外にむつかしく、各大会の監督は苦労した。第3回大会で監督をつとめた岡野俊一郎はいう。
「代表枠18人の中で、僕が選べるのは13人だった。あとの5人は政治的な配慮で選ばれた。サッカーの盛んでないところからも選んだ方がいい、また同じ地域に偏ると財政負担が大きくなるところが出てくるというのが、その理由だった」
「釜本邦茂(山城高1年)を選んだ。前年8月の大宮での合宿に120人が集まったが、彼は光っていた。ひと目見て『これは必ず大物になる』と判った。技術的には、まだ未熟なところがあったが、スピードがあり、ヘディングが強く、ゴール前で強かった。無条件で選んだ」
「だが、選んだ後、学校から辞退願いが来た。『3年のキャプテンが選ばれず、1年の釜本が選ばれるのは、チームワーク上でよくない』というのが、その理由だった。ユースは将来のことを考えて選んでいるので、学年など問題ではないと説得したが、両親からも辞退願いが来た。あきらめるしかなかった」
◆クラマーさんが指導
第1、2回は、くじ運に恵まれて3位だったが、それ以後の成績は下位に近くてあまりよくなかった。監督は名の通った指導者だったとしても、やはり外国勢との2歳のハンディは大きかった。
クラマーさんは第4回の1962年当時、日本にいて高校生の合宿を指導したが、それ以外は日本にいなかった。指導を受けた水野監督によると、高校生に判りやすい英語で声をかけて、実に的確な指導だった。例えば
・Quick ball contro l(近くに来たボールは早く処理しろ)
・Look around (周りをよく見ろ)
・Don't wait the ball (ボールを待つな)
・Look before,Think before (パスを受ける前に敵味方の動きをよく見ろ、動作を起こす前によく考えろ)
・Only staying (相手の前に立っているだけ。それでは駄目だ)
・Pass and go (パスしたら動け)
・No rest time between defence & offence (攻守の間に休むな)
これらは、すべて現在でも通用するサッカーの基本だ。トレーニングの最中に、クラマーさんは大きな声で選手に声をかける。その声が、いまにも私の耳に聞こえて来そうだ。
クラマーさんの講義をうける日本の高校生たち。 |
◆続々育った若手
1964年東京オリンピックで日本代表に選ばれる優秀な若手選手は、このアジア・ユースで生まれ育っていった。
杉山隆一は1回大会から3回大会まで、釜本邦茂と山口芳忠は4回、5回大会に参加した。
1回大会には宮本輝紀と継谷昌三、2回大会には松本育夫、3回大会には横山謙三、小城得達、4回大会には森孝慈が参加している。継谷を除く全員が、すべて1968年メキシコ・オリンピック銅メダルまで活躍する。
日本のサッカー関係者一同は、ラーマン首相に感謝せねばなるまい。
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クラマーさんとの会話(21) 「奥寺の印象」
中条 奥寺選手にどんな印象を持っていますか。
クラマー 効果的なプレーができる選手だった。バイスバイラーが彼を引っ張ってきた。バイスバイラーの言葉によれば「奥寺はいつでも動いている。しかも、その動きは効果的だ」というところを見込んだのだろう。チームの中心のオベラートは、70メートル先のポケットにボールを入れるくらい正確な左足を持っていたが、その彼もだんだん衰えてきたので、オベラート中心のチームを変える必要に迫られて、新しいチームを作るための一人として奥寺を選んだのだろう。
中条 そして、成功を収めた。
クラマー もちろんドイツにやってきた日本選手の中で、もっとも成功を収めた選手だろう。だからといって、テクニックの優れたすばらしい選手だといわない方がいい。日本人はテクニックに、あやふやなイメージを持っている。曲芸的なものをテクニックだと思っている。そんな曲芸ができるのを、いい選手だと誤解している。試合に役に立つ動きができるのが本当のテクニックだ。奥寺は輝かしい選手とは言えなかったが、そんな効果的な動きができた。レーハーゲルがブレーメンに呼んだのも、同じ理由からだろう。
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