(48)熱烈な提言
◆厳しい分析と総括
何度も何度も繰り返すようだが、メキシコ・オリンピック以後、日本代表のレベルが急速にダウンした。アジアの壁が突破できなくなった。クラマーさんはこのことが、大いに不満だった。
クラマーさんは1969年検見川でのFIFAコーチングスクールを終えて、11月7日に次の任地ニュージーランドに向かった。日本を去るに当たって、新聞記者に語った「日本サッカーの分析と総括」は、予想されていたとはいえ、極めてきびしいものだった。
「東京オリンピック以後、日本サッカーの進歩は世界でも例を見ないすばらしいものだった。そしてメキシコ・オリンピックでは、プロのような相手とたたかって銅メダルを得た。世界一流の仲間入りをした。だが、あれからわずかに1年。日本はあっさり世界レベルから脱落して、元の平凡な国になってしまった。日に日に進歩する世界サッカー界では、現状維持は後退を意味する。世界はマラソンのスピードで走っているのに、日本はのんびりとジョギングをしていた」
離日の2日前の11月5日、日本蹴球協会の常務理事・理事の合同会議が開かれた。クラマーさんは、とくに出席を求め、冒頭で「私が日本のサッカーをどれだけ愛しているか、みなさんは承知しておられると信じています」と前置きして、これからやるべき「協会の組織改革」を、組織図を示しながら熱っぽく提言した。
「会長、副会長、総務主事のもとに、審判、広報、渉外、技術、日本リーグ、大学、ユースの各委員会を設置するとともに、委員会の決定事項を実施する有能な有給の事務局長を雇って近代化することが必要です。また、日本代表、ジュニア、ユースにそれぞれ専任コーチを置くべきです。これらコーチも事務局長が完全に掌握する仕組みにすることが大切です」
◆提言の裏には
提言の中で、若手育成のユース委員会だけでなく、大学委員会を置くべきだという発言は、学校体育を基盤とし、アマチュアとして発展して来た日本スポーツ界を、クラマーさんなりに分析した結果だった。
「60年に私が日本に来たころは、渡辺、川西らが立大に、宮本征、川淵らが早大にいた。東京オリンピック前後も、立大の横山、中大の山口、小城、明大の杉山、早大の釜本と学生出身選手が活躍した。ところが、今年69年の代表チームには、頼りになる新しい学生選手は一人もいなかった」
「検見川で、次代をになう大学選手たちを見たが、代表選手とあきらかに大きな差があった。率直のところ素質を感じさせる選手はひとりもいなかった。大学の選手の指導をおこたり、このような状態が続くなら日本に将来はない」
93年にプロのJリーグができてからは、「大学」に固執したクラマーさんの提言は古いという意見もあろう。強化の対象は大学生でなく、高校や各クラブのユース選手に移ったからだ。クラマーさんの提言はあくまでも、あの時代に則したものだった。
◆節目節目の改革
節目節目という考え方からすれば、メキシコ銅メダル後の日本サッカー界は、東京オリンピックの2年前の62年暮れの状況に似ていたといえまいか。あのとき日本代表監督だった高橋英辰が思い切って外され、長沼監督−岡野コーチの新コンビが誕生した。東京オリンピックを前にして、高橋監督では、なかなかチームとしての形ができないまま成果もあがらず、結局クラマーさんのアドバイスに基づいての「改革断行」だった。
再びアジア予選すら突破できなくなった69年以後の閉塞した状況は、クラマーさんならずとも「組織改造」を言い出したくなる雰囲気だった。
日本蹴球協会は、1956年メルボルン・オリンピック前後から野津会長、竹腰理事長、小野常務理事ラインが、ほぼ独占的に運営に当たっていた。もちろん規模の小さな当時の日本協会はそれでよかったし、クラマーさんを招く決断をした野津会長以下の大きな功績を否定するものではない。
だが、クラマーさんは外部からみて、当時の幹部のマンネリ化や老化による限界を少なからず感じていたようだ。率直のところ委員会制度といった、やや平凡な「組織改革の提言」の背後に、金属疲労をしつつあった協会幹部の「総入れ替え」というクラマーさんの意図を感じることができる。入れ替えた後の、クラマーさんが描く首脳部の新人事は長沼−岡野ラインだった。
◆3代会長で時間を浪費
クラマーさんは、いつか「長沼の会長就任が、もう10年早ければなあ」ともらしたことがある。だが、野津会長が辞めたのは、はるか後の76年だった。そのあと会長に就任したのは「それまで一度もサッカーの試合を見たことない」という財界の大物、平井富三郎(新日鉄社長)だった。
その後2人の会長藤田静夫(京都協会会長)、島田秀夫(三菱重工副社長)が就任する。クラマーさんは、これら会長に対しては非常にきびしい。
「会長を決めるにあたって、日本の伝統的なやり方があるのはわかる。社会的に尊敬のできる良い人だったにちがいない。だが、会長は人柄がいいだけでは勤まらない。大会の開会式であいさつをして、ああこの人がいまの会長かと思ったくらいで記憶にも残っていない。お天気の話をする程度で、日本のサッカー界全体をどういう方向に持っていこうとしてるのか、どういう方法で強くしていくのか、そういった経綸も抱負も感じられなかった。会長3代の期間、日本サッカーは貴重な時間を無駄にしてしまった」
長沼が会長に就任したのは94年。96年には日韓共同開催の2002年ワールドカップ招致に成功する。
◆日本政府が表彰
69年11月ニュージーランドに向かったクラマーさんは、その後も約5年間FIFAコーチとしてオセアニア、アメリカ、アフリカなどを精力的に回った。その間、クアラルンプール、テヘランで検見川に続いて第2、第3のコーチングスクールを開いた。
「70以上の国を回った。FIFAコーチを辞めた75年以後も、個人として頼まれて行った国もあるから、全部で約90カ国をコーチしたことになる」
71年9月クラマーさんは、日本蹴球協会の創立50周年記念式典に招かれた。これを機に、日本政府は、長年、日本サッカー界に貢献した功績を称えて9月10日の閣議でクラマーさんに勲三等瑞宝章を贈ることを決めた。
我が国の叙勲制度をくわしくは知らない。どうやって等級をつけるのかも知らない。だが、政治家では勲一等をもらう人がたくさんいる。勲一等が金メダルなら、勲三等は銅メダルだろう。クラマーさんの功績は銅メダルとしか評価されないのか。英語でサードクラスと説明しなくてはならないなんて失礼だ。私(中条)個人は少なからず不満だ。
だが、クラマーさんは紳士だから「日本のファンの皆さんと、この喜びを分かちたい」と、勲三等を素直に喜んでみせた。その喜びをさらに爆発させたのは、折りから検見川で合宿中の日本代表選手たちに、祝福の胴上げをされた時だった。
1971年9月13日、文部大臣室で勲三等瑞宝章を受章したのち、高見三郎文相(左端)と懇談するクラマーさん。(中央は野津会長) |
★
クラマーさんとの会話(48) 「お国ぶり」
中条 いろんな国で苦労が多かったでしょう。
クラマー アラブ圏とイスラエルのコーチをしている時はたいへんだった。2通の旅券を持ち使い分けた。例えばカイロからイスラエルに直接飛べないので、アテネ経由で行ったりした。サッカーファンのビリー・ブラントが外務大臣だったので2通りの旅券を容易に手に入れることができた。
中条 アフリカはどうでした。
クラマー ほぼ全域を回った。25カ国くらいかな。私は1970年前あたりからアフリカが強くなることが分かっていた。当時はエジプトがヨーロッパ化しており抜きん出ていた。外人選手はいなかったが、たくさんの外人トレーナーが、いろんなクラブで働いていた。チュニジア、モロッコ、アルジェリアはフランスのコーチがいて、かなりレベルが高かった。ナイジェリア、ガーナ、カメルーンは素質ある選手が多く、これも早くから強くなることが分かっていた。
中条 東南アジアはどうですか。
クラマー タイ、インドネシア、マレーシアは生まれつきのタレントを持った者が多く、優雅なサッカーをやるが練習嫌いでスタンドプレーが多い。インド系は規律があり、中国系は戦術に長け洗練されたインテリが多い。だから、守備はなるべくインドや中国系に、攻撃はマレー系にやらせた。だが、これらの国はサッカー・マフィアのような連中がいて、賭けが盛んで刃物を取り出したりして物騒なところもあった。
「クラマー取材ノートから」に対するご意見・ご感想をおよせください。
こちらから。
|