18.
新体制への布石
◆指導者養成の考え方
ドイツの指導者養成の基本的な考え方は「監督やコーチは選手の延長ではない」ということだ。
いくら優秀な選手でも、経験だけで監督になれない。きちんとした指導者養成課程を履修し、最終テストに合格しなければならない。(唯一の驚くべき例外は、90年イタリアW杯で優勝した西ドイツ監督のベッケンバウアーだ。彼は指導者養成課程を受けていなかった。それで、監督(トレーナー)の名称の代わりに「チーム・シェフ」という呼称を使った)
プレーを見せるヘルベルガー(左端)。中央に若き日のクラマーさん、その横で腕を組んでいるのはバイスバイラー。 |
第二次大戦後、この指導者養成のシステムを構築したのは、クラマーさんの恩師ゼップ・ヘルベルガーである。
「トップ選手の強化訓練をするだけでは限界がある。きちんとした指導者を何百人、何千人と育てなければサッカー全体の発展はあり得ない」という考えが基本にあった。
ヘルベルガーはケルンのスポーツ大学に指導者養成課程を作って、長く主任をやっていた。50年代終わりに、バイスバイラーに主任の地位を譲ったが、日本からも多くの人が、ここでコーチの資格をとった。
クラマーさんの指導を受けて、日本でも、この資格取得の考え方が当たり前になった。指導者の資格をとらなければJリーグの監督にもなれないことは、いまやよく知られている。
◆長沼−岡野の留学
いま一つの指導者養成課程は、日本代表が1960年以後毎年のように合宿地として選んだデュイスブルクのスポルト・シューレで資格をとるものだ。
岡野俊一郎は1961年2月から3月にかけて、ここに約40日間留学した。通訳をしていた関係で、クラマーさんから招待されたものだった。費用は3年後の東京オリンピック選手強化本部が出してくれた。
長沼健は1962年9月から10月にかけて40日間、日本協会の肝入りで水野隆と小畑実とともに、やはり同じデュイスブルクに留学し資格をとった。
ここらあたり、クラマーさんの構想のもと、高橋監督から新しい感覚を持つ若い長沼−岡野ラインに引き継がれる伏線が着々と実行に移されていたといえよう。
「監督交代の時、私(クラマーさん)は日本にいなかったから詳しい経過は知らない。だが、若返りを提案していたことはたしかだ。ここではっきりしておきたいのは、私の立場は日本協会から招待された一人の外人コーチにすぎないということだ。日本サッカーの進歩のため、いろんな義務を果たさなければならないが、決定権があるわけではない。契約上でも、規則の上でも、アドバイザーとして意見を述べ、忠告することは仕事の範囲内だが、決定にまで干渉することはできない。そこを注意深く理解しておいてほしい」
クラマーさんらしいケジメの付け方だ。
◆岡野の思い出
岡野は留学の思い出を、懐かしそうにこう語る。
「驚いたのは、ヘルベルガーさんの影響力のもと、指導法がドイツらしくきちんと統制がとれていることだった。クラマーさんはもちろん、すべての指導者がヘルベルガーさんが作り出した同じことを忠実に実行していた。つまり、僕はこのシューレでクラマーさんが日本で教えてくれたサッカーを再確認したといえるだろう」
「ちょうどドイツのU-23の選手が2週間の合宿をやっていた。その合宿に参加させてもらって、若い選手とインドア・サッカーをやったり、ヘルベルガーさんの講義を受けたりした。後に代表監督になるシェーンさんがヘルベルガーさんのアシスタントをやっていた。選手やコーチに多くの友人ができた」
「西地区代表に同行して、ベルリン地区代表との試合を見るためベルリンに行ったこともある。クラマーさんが西の監督だった。更衣室でのクラマーさんのやり方を見て、大いに勉強になった。小雨が降っていたので、クラマーさんはスパイクのポイントの高さをどうするかに始まって、雨中戦の基本的な戦い方を説明し、選手一人一人にいろんな指示を与えた」
◆プロのコーチ
ドイツの指導者の、もう一つの考え方は「監督・コーチの職業化」だった。サッカーを教える教師、つまり学校の先生のようなものだから当然有給であるべきものだろう。だが、従来の日本の監督は、選手同様アマチュアで、仕事の片手間にやっていた。細かい契約書も、契約期間も契約金もなかった。
若返った長沼−岡野だが、当時の日本協会の貧しい財政状態から報酬はなく、真の意味でのプロコーチ誕生は成らなかった。長沼は依然として古河電工の社員として給料をもらい、岡野はいそしむべき家業があった。
監督が完全にプロ化するのは、ずっと後のことで初めて外国人として起用された1992年5月のハンス・オフト監督から、日本人は1995年1月の加茂周が最初だった。
◆優れた人物観察眼
1962年12月、長沼32歳、岡野31歳。歴史的ともいえる若き名コンビへの委譲が実現し、やっと東京オリンピックへの体制が整った。2人を推薦したクラマーさんの人を見る目が優れていたといえよう。
「ケン(長沼のこと)とは古い付き合いで、選手時代と監督時代の両方を知っている。穏やかで洗練された紳士だ。スピーチがうまく、心が行き届いていて説得力があった。自己犠牲ができて、私は彼の怒った顔を見たことがない」
「ケンは古河で最年長の選手として手本になる傑出した人物で、みんなに尊敬されていた。絶対に反則をしない作戦に長けた頭脳派のサッカーをみせた。日本の剣道家がいう残心という言葉そのままの、ドイツでいえばゲルト・ミューラーだった。不可能に近いゴールをよく決めていた」
「シュン(岡野のこと)は、いろんな才能に恵まれている。とくにスキー、水泳は素人の域を脱しており、もし本格的にやっておれば、ナショナルチームの選手になっていたのではないか。サッカーでも同様で、教えたことを体と頭で覚えるのが早い。これは生まれつきの才能である」
「シュンは私の母にドイツ語の手紙を書くくらい言語の修得も早い。通訳としてつききりで世話をしてくれた。クリスマスの買い物にもついてきてくれた。手品をやって人を楽しませることもできる器用な男で、一緒にバーに行っても人気者なので驚いたことがある。私の息子は手品をまねて夢中になって練習していた。賭けをやって、私は彼に勝ったことがない」
「家庭も豊かで、役員として組織化にも長けており、知性を備え、話術も優れている。後に国際オリンピック委員に選ばれたのも当然である」
「この2人は、サッカーの指導者としても国際級で、世界各国のサッカーについての知識も豊富だった。ドイツでコーチの資格をとったときもハイスタンダードな成績だった。東京、メキシコでの成功は、選手だけでなくコーチ陣が非常に優れていたからだ」
ケンとシュンのことになると、とにかくベタほめ。クラマーさんの話はなかなか終わらない。
★ クラマーさんとの会話(18) 「達成感が大切」
中条 クラマーさんの教え方は実に多彩でしたね。
クラマー 指導でいちばん大切なのは、スケジュールを漫然とこなすのではなく、毎日その日のテーマを決めてやることだ。そして選手たちに達成感を与える必要がある。それは口でいうほど楽ではない。達成感は打出の小槌のように簡単に得られるものではない。
中条 毎日の準備もたいへんでしたね。
クラマー 講義やトレーニングは、必ず30分前に行って、黒板はきちんとしているか、メディシンボールは準備されているか。それらをきちんと点検しなければコーチはできない。ただのんべんだらりとプログラムされたトレーニングをこなすのではなく、常に効果を考えていかなくては駄目だ。例えば、これを結婚と同じだ、という人がいる。ただのんべんだらりと一緒に住むのではなく、愛する達成感がなくてはならぬ。効果にその都度手ごたえを感じながら進めていかなくてはならない。
中条 なるほど。
クラマー 3つのグループがあったとする。1日にその各々に講義する場合、同じ講義をやるのではなく、その対象に応じて講義を変えていかねばならない。その都度、新しい内容を入れて、選手たちに何かを感じさせなければならない。
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