3. 野津謙会長の功績
◆「あんた、死になはれ」
クラマーさん招待に、日本側でいちばん力をつくしたのは、当時の日本蹴球協会会長の野津謙(のづ・ゆずる)さんである。
野津さんがいなかったら、おそらくクラマーさんが日本に来ることもなかったし、メキシコ銅メダルも実現しなかったろう。
野津さんは現役時代に極東大会の日本代表として活躍され、会長になったのは1955年。そのころ、ほかの競技団体は財界や政界出身の会長が多かった時代で、選手出身の野津さんは「キャプテン会長」と呼ばれたものだった。
「外国人コーチを呼ぼう」という声が、まるで入道雲のようにモクモクと盛り上がってきたのは、私の記憶では、クラマーさんが来日する前年の1959年暮れ。
それまで一部マスコミや大学の古いOBの間で「竹腰監督では、もう駄目だ」とささやかれてはいたが、決定打となったのは12月13日、後楽園競輪場で開かれたローマ五輪極東予選第1戦で日本代表が韓国に0−2で負けた時である。
全サッカー人の失望は大きかった。高橋英辰コーチの手記によれば、敗戦の夜、田辺五兵衛副会長が竹腰重丸監督に向かって「ズバリ申し上げる。あんた、死になはれ」とハッパをかけたと伝えられる。日本サッカーは気分的にもそれほどドン詰まり状態だった。
◆ドイツだ。ドイツしかない
韓国との第2戦が行われたのは1週間後の12月19日だった。その試合直前に常務理事会が開かれた。野津会長が口火を切った。「日本のサッカーは、このままでいいのか。死にもの狂いで何とかしようではないか」
誰からともなく「外国人コーチを招いて徹底的に鍛え直そう」の声が出た。
外人コーチにただ一人反対したのは川本泰三だった。1936年ベルリン五輪でフォワードとしてスウェーデンに逆転勝ちした立役者だった。「日本には、日本のやり方がある。日本のレベルは決して低くはない」。だが、結局は川本も折れて全員が賛成した。
韓国との第2戦は、予想を裏切って1−0で日本が勝って辛うじて面目を保った。だが、得失点差で日本は敗れ、ローマ行きを失った。「外国人コーチを招こう」は、ほぼサッカー界の一致したコンセンサスになった。竹腰監督は、第2戦後の日刊スポーツのインタビューに「外国人コーチを呼ぶことを考えている」と語っている。
だが、問題はどの国から招くかだった。英語が堪能なFIFA理事の市田左右一常務理事は、サッカーの母国イングランドを推し、南米の雄ブラジルを推す人もいた。年が明けて1月いっぱい話し合われたが、野津会長は、心の中ですでに決めていた。「ドイツだ。ドイツしかない」
◆哲学好きの野津会長
クラマーさんは、野津会長の人柄を含め、当時をこう述懐する。
「ドクター・ノズは頭が良くて、めったに怒ったことがなく、おだやかな理想主義者で、人間的にすばらしい人だった。彼と私はどこかで共通点があった。彼と知り合えた私は幸福だった」
「ドイツの医者はラテン語を勉強するが、日本ではドイツ語を勉強するとかで、ドクター・ノズはドイツ語が堪能だった。それにドイツ哲学が好きだったらしく、カントやヘーゲルについてもよく話し合った。日本人はドイツ人に似たところがあり、思想的にも精神的にも共通点があった。音楽もベートーベンやシューベルトが好きな人が多いと聞いていた。私は実にスムーズに日本の社会に溶け込むことができた」
野津会長は精神的にドイツ人と共通するものを持ち、要するにドイツが大好きだったのだ。ドイツは54年ワールドカップ優勝の強豪国であり、オリンピックで日本はベルリン大会でスウェーデンに奇跡の逆転勝ちしているし、日本チームの戦後初の海外遠征はドルトムントの世界学生大会と、戦時中の同盟関係を含めドイツとは何となく親近感がある。
野津さんが育った広島は、第一次大戦のころドイツの捕虜にサッカーを教わった縁もある。
◆額に飾られた言葉
だが、野津会長に「絶対クラマーだ、万難を排してクラマーを呼ぼう」と決定的に決断させたのは、日本代表チームとともに泊まったデュイスブルクのスポルト・シューレのゲストルームに掲げられた額に入った言葉を見た時だった。
Das Auge an sich ist blind,
das Ohr an sich ist taub,
Es ist der Geist,der sielt,
es ist der Geist,der hort
目、それ自体は盲であり、
耳、それ自体はつんぼである。
物を見るのは精神であり、
音を聞くのは精神である。
クラマーさんによると、これはギリシャの哲学者の言葉で、意図的に置いたものではなく、またクラマーさんが書いたものでもなく、ほんの偶然だった。翌朝、朝食の時、「よく眠れましたか」とクラマーさんが聞いたら、野津さんは「私の部屋で、すばらしいものを見つけた。ここに理想が書かれてあった」と深く感銘を受けたようだった。
私も、野津さんに「サッカーはただボールを蹴るだけのものではない。精神なんですよ。ドイツには、そのような筋が一本通っている。それを学ばなければならない」と何度か聞かされたことがある。
★ クラマーさんとの会話(3) 「
無駄だった3人の会長 」
中条 メキシコで銅メダルを取ったのち、日本は長い低迷期入りました。やがて野津さんは会長を辞めるし、何故こうなったのでしょうね。
クラマー 長沼は20年早く会長になるべきだった。ドクター・ノズが辞めた後、3人の会長が就任したが、彼らは日本サッカーをどういう方向へ持って行こうか、という理想も抱負もなかった。それが低迷の一つの原因だ。それだけノズは偉大だった。
中条 野津さんのことは、だんだん忘れられていきますね。
クラマー まったくそうだ。彼は環境問題でも熱心だった。ドイツで環境のことを誰もいわないころだった。彼はサッカー以外でも、こうと思ったらとことんやる信念の人、行動の人だった。
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