22.
コーチになった経緯
◆突然の解放
クラマーさんは1925年生まれだから、当然第二次大戦を経験している。そのことは、連載(5)「落下傘兵だった」で紹介した。
ここで、ちょっとサッカーから離れるが、ひと休みして、クラマーさんがオランダで捕虜になってから、サッカーの指導者になるまでの経緯を、クラマーさんの話を基に紹介しよう。
落下傘で降下するクラマーさん
(写真提供:クラマーさん)
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オランダで捕虜になったクラマーさんは、やがて西ドイツに送られる。当時ドイツは連合国4カ国に分割統治されていた。英連邦軍の占領地、ニーダーザクセン州のエスターベーゲンの捕虜収容所に収容される。そこはカナダ兵が管理していた。
間もなくイタリアで罹ったマラリアがぶり返した。猛烈な熱が出て3日間苦しんだ。食料をくれる人もなく餓死寸前だった。それまでも年に2回くらいぶりかえしていたが、戦時中は、いつまでも野戦病院にいるわけにもいかず、完治してなかったのだ。
突然、カナダ人の責任者が1枚の紙切れを出して「帰ってもよい」と言った。紙切れは釈放状だった。たぶんマラリア患者なんか、置いておいても面倒と思ったのか、あるいは外に放り出して「死んじゃえ」と思ったのか。終戦の翌年の3月末か、4月初めだったか、はっきり覚えていない。
◆頼った医者は死んでいた
まだ寒い時期だった。オーバーコートもなく、ボロボロの服で震えながらよろよろと歩いていたら、牛乳をのせる小さなトラックが通った。ヒッチハイクさながらに、それに乗せてもらった。近くのバート・ツビッシェンアーンにドクター・ディッケルホフという知り合いの医者がいることを思い出した。故郷のドルトムントに帰る前にとりあえず彼のところへ行こうと思った。
ところが、牛乳トラックがバート・ツビッシェンアーンに近づくと、葬式の列にぶつかった。それがなんとドクター・ディッケルホフの葬式だった。クラマーが釈放された日に、彼は死んでいた。
ディッケルホフの奥さんに「食べ物はありますか」と聞いた。「とりあえず家で休みなさい」。ところが食べてもすぐに下痢して消化する体力がない。少し休んだ後、また別の知人の家へ行こうと思ったが、1マルクの金も持っていなかったので、奥さんから何がしかのお金(電車賃)をもらい、ウイルヘルムス・ハーフェンへ行った。そこは元Uボートの基地で、空襲にやられていたが、2、3日知人の地下室の床で寝ていた。
◆故郷は破壊されていた
60キロの体は45キロに痩せていた(今は55キロ)。少し元気になったので、また金を借りて生まれ故郷のドルトムントに向かった。だが、ドルトムントも空襲にやられ、大部分が破壊されていた。わが家もなくなっていた。両親の消息もわからない。
仲の良かった女友達を思い出し、彼女を訪ねようと思った。夜9時ころだった。
訪ねてみると、そこも空襲にやられていて階段がむき出しだった。その薄暗い階段を上って部屋をノックしたら、幸い友達がいた。彼女は両親が死に、姉と暮らしていた。スープをつくってくれたので、それを飲んだ。破壊されずに残ったひと部屋に3人で雑魚寝した。
数日後、その友人の姉妹が、「お母さんを町で見たという人がいたよ」と教えてくれた。無事だったのだ。母イレーネ(1904年生まれ、ギリシャ語で平和の意味)も自宅が破壊されたため友人を頼って、友人の家の一室で寝起きしていた。
◆やっと母と再会
母は戦争前、地元のウエストファリア週報という小さな新聞社で記者をしていたが、再びそこで働いていた。クラマーは母の友人宅で、仕事から帰った母と再会した。
造園業の父デットマール1世(1897年生まれ)は、第一次大戦にフランス戦線のベルダンで重傷を負い、両足のヒザから下を失い義足になっていた。だが、1944年予備兵として駆り出され、ポーランドのクラカウで、市の関係の仕事をしていた。
最初のころ、母も父と一緒に生活していたが、戦争がきびしくなったため、母だけでも、とクラカウを離れることにした。営林職員をしていたオーストリアの戦友の助けで、難民列車に乗ることができて、ポーランドを脱出、チェコからオーストリアを通ってドルトムントに帰ることができた。助けてくれた戦友は45年2月に戦死した。
戦後、父はずっと消息不明だったが、47年国際赤十字を通して探したらウイーンの野戦病院にいることが分かった。その父とは、母方の郷里カッセル
(母の両親がカッセルで生きていた) で同じ年に再会した。
◆コーチは30倍の競争率
仕事を探さねばならぬ。母と再会した数日後、母の勤める新聞社の編集部へ行った。ユースのころ、クラマーを取材した知り合いのスポーツの記者がいた。彼が「新聞の広告欄にいいニュースが載っているよ」と教えてくれた。
そこには「サッカーのコーチ求む。選手もやれる人。リップシュタットのサッカー・クラブ」とあった。
リップシュタットは人口5万くらい、ドルトムントから汽車で1時間のところにある。(ずっとのちのことだが、有名な選手ルンメニゲが生まれた町として知られている)
クラブは2つあって、コーチを募集しているのは、ケーネンという市長がオーナーをしているクラブだった。広告には「テストを次の日曜日にやる」とあった。
日曜日にリップシュタットに行ってみると、応募者が30人以上もいた。雇われるのはたった1人だからすごい競争率だった。試験は日曜日に試合を見て、月曜日にその試合を分析したレポートを提出し、水曜に合否が分かることになっていた。クラマーさんはゲームを読む力は抜群で、覚えるのが早かった。
幸い試験に合格した。「その日からトレーニングをやってくれ」といわれた。契約書が手元に残っている。その日付は46年4月26日。捕虜から解放されて約4週間後だった。体力はかなり回復していたが、体重は依然として45キロだった。
クラブの会長ケーネンは、クラマーの人生の中で、その後もずっと出てくる名前で、その後ウエストファリア州のサッカー協会長になり、ドイツ・サッカー連盟の財務担当をやった。政治家としても、またサッカー関係の仕事でも成功した。
1947−49年、パーダボレンに移って、選手兼コーチ。近所の学校で教えたり、週1回、村のトレーニングをやり、報酬としてジャガイモをもらったりした。ハンドボールのチームを教えたこともある。
こうして、クラマーさんは指導者の道を歩み始めた。
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クラマーさんとの会話(22) 「最大の恩人ヘルベルガー」
中条 初めてヘルベルガーさんに会ったのは何時
(いつ) ですか。
クラマー もちろん戦前だ。私がボルシア・ドルトムントに入って間もなく、西地区のユース代表に選ばれた。その時、初めて会った。人生の決定的な瞬間だった。彼には子どもがいなかった。そのせいか奥さんにとてもかわいがられた。ユース代表になった時、奥さんがドルトムント駅まで迎えにきてくれた。期待されていることが、よくわかった。
中条 デュイスブルクのスポルト・シューレの主任コーチに任命したのもヘルベルガーさんですね。
クラマー 1949年11月1日、24歳の時だった。ヘルベルガーさんが「やれ」と言い、「早く始めればそれだけ長くやれる」と推薦してくれた。このチャンスを逃すことはないと喜んでやることになった。そのとき選手から引退したが、その後1試合だけボルシア・ドルトムントのためカップ戦に出たことがある。
中条 大抜擢ですね。
クラマー 20歳で一つの部隊を率いる部隊長になっていた。そういう統率力をヘルベルガーさんが見込んでくれたのだろう。同時に西部地区の主任コーチもやることになった。デュイスブルクに本部をおき、カイザーホフ、ヘネフの三つを統括した。ドイツ各地を回って巡回指導をしたりした。
中条 するとお辞めになったのは1963年12月ですから、デュイスブルクできっちり14年間勤められたことになりますね。
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