(49)アメリカ監督に就任
◆ヘルタの監督を断る
1974年6月13日、ワールドカップ西ドイツ大会が開幕した。大会前のFIFA総会で、サー・スタンレー・ラウス会長が辞め、ブラジルのジョアン・アベランジェが新会長に選ばれた。
クラマーさんのFIFAコーチの仕事も、任期いっぱいの同年6月30日で終わった。67年4月1日の就任以来、7年3カ月間、世界中を飛び回ってコーチしていたことになる。
その後、クラマーさんはヘルタ・ベルリンと監督契約するが、すぐにキャンセルしてアメリカへ行く。アメリカでは約半年間いたが、年が明けた75年1月、突如バイエルン・ミュンヘンの監督に就任する。まさに激動の半年だった。その経緯をクラマーさんは、順番を追ってこう説明する。
「ヘルタ・ベルリンからの監督の話はワールドカップ直前に来た。それで、ヘルタのため、いろんな選手に声をかけた。ブライトナーとヘーネスがヘルタへ行くと約束してくれた。ボルシアのフォクツもバイスバイラー監督とうまくいっていないと聞いていたので連れてくるつもりだった。すべてユース時代に、私が手掛けた選手たちだった」
◆会長が詐欺事件
「ところが、ヘルタのバルネッケ会長が詐欺事件を抱えていることがわかった。加えて契約上、会長が私をだます格好になった。7月1日付で契約したが、トレーニング開始日にその解約を申し出た」
「アメリカに来ないかという話は、ワールドカップの期間中にあった。監督をやるかたわら、アメリカ各地でコーチング・スクールを開き、指導者養成システムを作ってほしいという話だった」
「アメリカとは、それまでもいい関係だった。FIFAコーチのときに、アメリカの夏休みに当たる毎年3カ月(6、7、8月)、巡回しながら講習会を全米で10数回やった。FIFAとしての仕事でなく、個人の仕事としてやることもあった。アラスカへも行った」
「アメリカ行きは魅力ある話だった。だが、もちろんその時はすでにヘルタと契約のサインをしていたので断っていた。だが、会長の詐欺事件で、ヘルタをキャンセルせざるを得なくなった。ブライトナーもすでにヘルタにくることを約束していたが、私がヘルタ行きをやめたので、レアル・マドリッドに移籍した。ヘーネスは、バイエルン・ミュンヘンに残った」
スキャンダルが好きな大衆紙は、「クラマーは代表監督のシェーンの後釜をねらっている。それでヘルタを辞めたのだ」などと書き立てたが、クラマーさんには「もちろん、そんな気持ちはまったくなかった」
ヘルタをキャンセルした翌日、クラマーさんは荷物をまとめてアメリカへ向かった。
「アメリカに着いたときのことは、よく覚えている。空港に3人が迎えてくれた。ドイツから移住した人が事務総長。プロリーグを作ったラマー・ハント会長は石油で大儲けした百万長者。アメリカ・サッカー協会会長はスコットランド系。ヘルタをキャンセルした3日後に、ニューヨーク5番街のエンパイア・ステートビルの高いところにあるアメリカ・サッカー協会の事務所にいた」
◆全権を委任される
アメリカでのクラマーさんの正式な肩書は2つあった。1つはナショナル・トレーナーで、トップからユースまでのトレーニングと試合をやること。もう1つは、ディレクター・オブ・コーチングで、指導者を養成することだった。つまり選手の強化と育成の全責任をおわされる形で、ユースから代表までが使うアメリカ用の教本も、クラマーさんが作った。
「アメリカで最初にやった仕事は、サンフランシスコで代表チームを集めてのトレーニング、そしてトレーナーの講習会だった。代表監督として国際試合もやった。相手はメキシコ代表で、ホームとアウェイ(ダラス、モントレー)で2試合をやった」
「次いで76年オリンピックに向けての五輪チームを招集して、アメリカ全土を転戦し、プロを相手に試合した。その後も全米各地で、トレーナーの講習会、オリンピックチームの強化を続けた。一度ニューヨークに戻って、技術など各委員会と打ち合わせをした。74年の年内いっぱいの12月まで、そんなことをやっていた」
「だが、トントン拍子でテンポが早すぎて文書による正式な契約を結んでいなかった。理事会との打ち合わせで『こういうふうにやりましょう』という口約束だけで仕事していたのが、後に問題を起こした」
◆資金にも不安
協会幹部との会合の後、資金の調査員(ドイツからのユダヤ系の移民)がやってきて、「ドイツ語のdu(英語でyouにあたる親密語)で話していいか」と言うので、クラマーさんが「いいよ」と言ったら、親切にも給料の手取りの話をしてくれた。
「それは税金の話だった。報酬に莫大な税金(州50%、連邦15%、ニューヨーク・シティ3%、合計68%)を取られるということでびっくりした。『アメリカ協会は金に困っているし、下手をすれば、代表監督の報酬として用意していた額を、全部税金でもっていかれるかもしれない
』と、会計調査員はアドバイスしてくれた。正式な契約をしていなかったのは、そういうこともあろうかと思っていたからだ」
アメリカは広い。時差があり、朝8時にニューヨークの事務所に行っても、サンフランシスコはまだ夜だった。電話料金、飛行機による移動などの費用もバカにならぬ。クラマーさん一人雇うのに莫大な金がかかる。「下手をすれば資金不足で身動きできなくなる」。クラマーさんは、そんな不吉な予感がした。
当時アメリカ協会は本当に資金難だった。オリンピック・チームがイスラエルで合宿する直前、フォード大統領にホワイトハウスに招かれた。「資金が乏しくて困っている」と協会関係者が言うと、大統領は「それじゃ、イスラエルへは軍の専用機で行けばいい」と飛行機を手配してくれたほどだった。
「プロリーグのコミッショナー(元イギリスのアストンビラにいた人)が『心配するな』と言ってくれた。クリスマス休暇は、ドイツが遠いのでバーミューダ島で1週間過ごした後、年が明けて75年1月、それまでの口約束の続きでタンパで最後の講習会をやった」
◆ベッケンバウアーからの誘い
だが、そのころ、いろんな事情がわかって、クラマーさんは用心深くなっていた。経済的な理由から見ても、「ここにはこれ以上おれない」と思い始めていた。
そんな時、バイエルン・ミュンヘンのベッケンバウアー主将からタンパへ電話がかかってきた。クラマーさんは、ちょうど講習会の授業中だった。メモが残っていた。折り返し電話した。ベッケンバウアーはこう言った。
「バイエルン・ミュンヘンの監督をやってほしいのだが」
パーティでインディアンの格好をするなど、アメリカ社会にとけこんでいたクラマーさん(中央)だったが……。 |
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クラマーさんとの会話(49) 「カネまみれの日本遠征」
中条 ベッケンバウアーから電話があった75年1月といえば、バイエルン・ミュンヘンが東京に遠征しています。5日と7日に超満員の国立競技場で2試合をやって、日本代表はともに0−1で負けました。
クラマー ベッケンバウアーから日本遠征の話を聞いていた。前の監督のラテックが辞めて、後に私の助手をやるケルンが代理監督をやっていた。
中条 ラテックはなぜ辞めたのですか。
クラマー それまでバイエルンは、ほとんどのタイトルをとり、休みなく戦いみんな疲れ切っていた。ブンデスリーガの前期が終わって14位だった。2部落ちの危機もあった。それで辞めさせろの声が出た。私が、もし12月に監督になっていたら、日本遠征を止めさせただろう。あのとき必要なのは休養だった。
中条 それでも遠征が強行された。カネですか。
クラマー そうだ。いつもカネ、カネ、カネだ。2005年8月にも、日本遠征して浦和レッズと試合したが、これもカネだ。朝、日本に着いて、午後軽く練習、夜パーティ、翌日試合、そして、その夜帰国の飛行機に乗る。日本に1泊しかしない超強行日程だ。コンディションはめちゃめちゃだ。こんなことをやるのもカネのせいだ。
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