16.
1962年アジア大会の惨敗
◆西ドイツ選抜が来日
1961年4月に2度目の来日をして約13カ月間、クラマーさんは日本サッカー界を改造し、地方の人たちにも大きな夢を与えてくれた。だが、クラマーさんの身分は依然として西ドイツ西地区の主任コーチだった。ドイツに多くの仕事を残していた。
残念ながら、クラマーさんの日本での任期の終わりがやってきた。総決算として1962年5月下旬、西ドイツ選抜チームを招いて日本各地で4試合が行われた。
このチームは実質的には西ドイツの西地区の代表で、クラマーさん子飼いの平均年齢23.7の若い選手ばかりだった。2年前、日本代表が0−5で完敗したアルマニア・アーヘンからわずかに1人しか選ばれていないほどの実力派ぞろい。後にブレーメンや2004年欧州選手権で優勝するギリシャの監督をつとめるオットー・レーハーゲルがいた。
クラマーさんと愛弟子のレーハーゲル(ブレーメン監督時代) |
◆1勝もできず
対する全日本は高橋監督、クラマー・コーチのもと、過去2回デュイスブルクのスポルト・シューレで合宿したメンバーがほとんど。欧州のチームとの対戦に少し慣れてきたので、勝てないにしてもどの程度進歩しているか。とくにドイツの強圧的な攻撃にどれだけ耐え得るかを計る格好の相手といえた。
結果は、来日の翌々日で旅の疲れが残るドイツに、5月17日の第1戦こそ、全日本は1−2(後楽園競輪場)と善戦したが、2、3戦(中日スタジアム、西京極競技場)は1−4、0−5と3戦全敗した。第4戦の全日本選手権チームの中大は0−6(大宮)と惨敗した。
◆大きい経験の差
ドイツの頑丈でバランスのとれた個々の強さと、日本の相変わらず得点が決められない攻撃が目立った。だが、日本チームに対する新聞論調はおおむね好意的だった。
クラマーさんの指示で、両ウイングの杉山と宮本輝を下がらせて相手ウイングをマークさせ、バックスを一人余らせる守備優先の作戦が、ある程度成功する場面が多かったからだ。
だが、早めに守備を固める日本に対し、ドイツは第1戦の前半こそ短いパスでゆさぶろうとしていたが、エンゲルブラハト・コーチの指示があったのだろう。後半だけでなく、第2、3戦でも、中、長距離の、やや荒っぽい縦パスを強引に通す作戦を多用してきた。
相手の縦パスに小沢を中心としたバック陣がくらいつく形が多く、それはそれで一つの見所となったが、コーナーキックなどのちょっとしたスキを衝かれて失点した。大事なときに確実に決めるドイツ選手との経験の差を感じさせた。
◆勝たねばならぬ試合
とくに第3戦の西京極の試合は朝から土砂降りの雨で、クラマーさんが「きょうはジャーマン・ウェザー(ドイツの天気)だ。ドイツ選手は雨が好きなんだ」という通り、思うように突進され大敗した。私は、デュイスブルクにシャワーを備えた雨天用のグラウンドがあったことを思い出した。
後々に至るまで、日本チームは欧州や南米の強豪に、ホームで善戦することがあった。だが、それは、守備に徹することができるし、負けてモトモトだから心理的に楽な試合運びができるからだ。
だが、本当は、タイトルをかけた試合で対等な相手、あるいは弱い相手に、きちんと得点を決めて「確実に勝つ」ことができてこそ、真の強さなのだ。
日本代表は、その確実に勝たなければならない試合を目前に控えていた。第4回アジア競技大会(1962年8月24日−9月4日・ジャカルタ)とムルデカ大会(同9月8日−20日・クアラルンプール)だった。勝たねばならない。だが、クラマーさんは、もういない。
◆ドイツ・サッカーの特徴
横道にそれるが、朝日新聞・大谷四郎記者は、この時のドイツ・チームの印象を次のように書いている。
「天才型というより努力型。華麗とかスマートという言葉は当てはまらない。それよりも少しドロ臭いが、がっちりとステップ・バイ・ステップで作り上げた蒸気機関車、スタートは電車ほど早くはないが、走りだすとしだいに力強く精力的、試合の流れを熟知した、まことに勝負に強そうなチームであった」
後の、ベッケンバウアーを擁しての74年ワールドカップ優勝から90年優勝にかけての、ドイツの勝負強いドロ臭さを予言するような卓見だった。
◆「優勝できる」とクラマーさん
クラマーさんは、1962年6月1日ドイツ・チームと一緒に帰国した。日本を去るに当たって「私は、アジア競技大会とムルデカ大会に行けないのは残念です」と、前置きして、アジア情勢について、およそ次のようなコメントを残した。
「韓国は非常に強い。とくにファイティング・スピリットが強い。マラヤはよいチームだ。だが、日本が学んだ通りのプレーをするなら勝てない相手ではない。インドネシアは選手の切り替え期にある。香港、タイはドイツ選抜が帰国の途次試合したが、日本より弱い。インド、シンガポール、ベトナムも勝てない相手ではない。日本が負けるときは、あきらめた時だけだ。強い神経と冷静さを保てば、日本は勝てる」
サッカー界の期待は大いに高まった。クラマーさんの帰国後、高橋監督のもと7月初めに明石、8月初めから東京と、2度の合宿をやった。[今までこれほど組み立てたチームはなかった」(高橋監督の話)というほど万全を期したつもりだったが、結果はまことに無残だった。
◆ともに予選突破できず
いざ本番となったが、アジア競技大会は、タイに3−0で勝ったものの、インドに0−2、韓国に0−1と連敗。予選リーグすら突破できなかった。
ムルデカ大会は、マラヤに2−2、パキスタンに1−1と2引き分けの後、ビルマに1−3で敗れ、これまた予選リーグで敗退した。
タイトル戦は難しい、と言ってしまえばその通りだが、格下の相手に前進守備ができないこと、つまり前線での攻守の切り替えができないこと、そして確実なストライカーがいないことが致命的、前途ほど遠しの感ありだった。
◆ラウス会長の評
たまたまFIFAのサー・スタンレー・ラウス会長が、アジア競技大会を見たのち、東京オリンピックの準備状況を視察するため9月3日来日した。6日の在京のサッカー記者会と懇談会では大いに話がはずんだが、ラウス会長は「アジア全体の水準は急速に上がっているのは喜ばしい」と前置きして、日本チームの印象を次のように語った。
「ミッドフィールドは非常にいい。だが、シュートがモタモタしている。早めにシュートする力をつけるべきだ。また、試合の流れや状況に応じて判断して行動するフレキシビリティが足りないように感じた」
専門家の目からみれば、今も昔も、日本の欠点は攻撃力にあることは明らかだった。
不世出のストライカー釜本邦茂が日本代表としてデビューしたのは、東京オリンピックの年の1964年2月21日のこと。アジア大会で惨敗したおよそ17カ月先のことである。
★ クラマーさんとの会話(16) 「シュート下手」
中条 60年に最初にお会いした時、日本人がシュートが下手なのは国民性もあるのでは、と話されたことがありますね。
クラマー そうだったかなあ。国民性によるキャラクターの違いはたしかにある。練習で決まるのに、本番では決まらいことが、日本人にはとくに多い。それは心理的なものだ。そんな心理の弱さが、もしかしたら国民性と関係しているかな、と思ったことがある。
中条 釜本は、日本人の特別な例なのかもしれませんね。
クラマー 昔は、特別だったかもしれないし、古い教育制度ではそういうことがあったかもしれない。だが、今はそんなことないだろう。釜本は今でも必ず日本にいる。みんなで探さないからだ。
中条 たしかに日本の教育制度は問題ありです。規格品作りはうまいが、天才教育は遅れています。
クラマー サッカーで大切なのは、個人個人の能力だ。それをキメ細かなトレーニングで開発していくしかない。一人一人の練習方法も、各自の長所と欠点を見分けて、個人に適したものをやっていく配慮がいる。双子だって性格や肉体が違うのだから、その子に適した教育方法があり、違って当然だ。人間は個人だ。個人の能力を上げ、それをチームに生かして行く、それがサッカーだ。いかに個人の能力をあげるか、どんな練習をやらせるか。それが一番大切である。
中条 個人への配慮が大切ということですね。
クラマー そうだ。サッカーで控え目というのなら、控え目をなくするのはどうすればいいかを考えればいい。そんな時、日本人だから、韓国人だからという言い方はしないほうがいいし、そんな区別をする必要はない。そして、個人の能力を上げるためにトレーナーがいるのだ。
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