26.
五輪代表が決まった
◆選手枠は19人
東京オリンピックに出場できる代表チームの人数枠は、監督、コーチのほか選手19人と決まっている。クラマーさんは、代表枠についてこう語っている。
「代表選手は一つの部屋にいるようなものだ。左のドアから新しい選手が入ってくれば、古い選手は同じ数だけ、いや応なしに右のドアから出て行かなければならない。それが人数枠であり、代表選手の宿命というものだ」
「選考にあたっての基本的な考え方は、少しずつでも若返りを図ること。そして厳しさと判断力が必要だ。1年前に代表だったからといって、今年も選ばれるとは限らない。すべて現在の実力が評価される。不幸にして故障などで実力が発揮できないと判った者は、残念ながら右のドアから出て行かなければならない。同情していては勝利はつかめない」
◆小沢をはずす
1964年9月12日、日本蹴球協会から代表19選手の名前が発表された。10月10日の東京オリンピック開幕まで、あと1カ月に迫っていた。午後3時から始まった強化委員会で原案がつくられ、例によって直後の常務理事会で最終決定した。
驚きは、19人の中に小沢通宏の名前がなかったことだ。彼は守備の要として1956年メルボルン・オリンピック予選以来、ほぼすべての代表試合に出ていた。60年にデュイスブルクのスポルトシューレの合宿に初めて参加した時のメンバーであり、直前のソ連・欧州遠征(7月17日−9月10日)で主将を務め、若い選手を叱咤激励する模範的なリーダーだった。
のちに1998年フランス・ワールドカップの折り、岡田武志監督が三浦知良と北沢豪の2人を外したのと同じくらいのショキング・ニュースだった。
強化委員会には野津会長、竹腰強化本部長、岩谷第1指導部長、欧州遠征の長沼監督、岡野コーチ、ムルデカ大会参加の水野監督、平木コーチら8人が出席していた。小沢を外すべきかどうかが大論議になったが、岡野コーチは「実際のところは、言いにくいことだが、小沢君を外したのはクラマーさんの意見でした。やはり少しずつでも若返りを、ということだったと思いますね」と、打ち明ける。
◆育った若いディフェンダー
代表決定の時、クラマーさんは日本にいなかった。岡野の言葉を受けて、クラマーさんは語る。
「私は日本サッカーをレベルアップさせるアドバイザーに過ぎなかった。契約の上でも、意見を述べたり、忠告したりすることはできるが、選手決定にまで口を出す資格はなかった。だが、それまで試合や練習をやりながら、東京オリンピックではどんなメンバーで行くべきか、長沼、岡野と常に話し合っていた。だから自然にチームの輪郭が出来て行った」
「チームがバラバラになりかけた時、声を出し、チームを励ます人がいなくてはならない。古くは小沢。メキシコ当時は小城だった。だが、小沢はずっと膝のケガを抱えていた。それを薬でかばいながらよく頑張っていた。しかし、東京オリンピックのころは明らかに下り坂だった。それはもうみんなが判っていたことではないか」
「私は、選手時代FWをやっていた。だからコーチになりたてのころは攻撃にばかり目が行っていた。だが、徐々に守備の大切さが判ってきた。まず重要なのはゴールキーパーだ。古川好男から保坂司、そして横山謙三に代わっていった。キーパーの次はリベロやストッパーと、うしろから順次固めていかねばならない。小沢は初期のころ、ストッパーとしてなくてはならない存在だった。だが、鎌田光夫、鈴木良三、小城得達、片山洋、宮本征勝、山口芳忠らディフェンスにすばらしい選手がどんどん育ってきた」
南ドイツ・ライトイムウインクルの自宅でインタビューを受けるクラマーさん。
(2006年9月撮影) |
◆つらい長沼監督の立場
長沼監督は、人情として主将・小沢を切るつらさとともに、指導者として冷静さを備えていた。
「まったくクラマーさんの言う通りでした。闘争心の強さでは小沢君の右に出る者はいなかった。それまで、彼の捨て身の強い当たりで何度ピンチを切り抜け、勝利をつかんだかしれない」
「半面、やはりスピードの衰えはかくせなくなっていた。時々だが、敗北につながる決定的なミスが目立つようになっていた。これは年齢的に仕方ないこと。だが、小沢君を外すのは、本当に身を切られるつらさでした。誰かがやらなくてはならない、という思いでした」
のちに岩谷第1指導部長は「小沢君を称える」という手記(日本蹴球協会発行の機関誌)の中で、「代表発表の日、長沼君は泣いていた。私はその顔をよう見なかった」と書いている。
小沢は東京オリンピックでは、来日する外国チームの練習相手として編成された日本代表Bチームのコーチを勤めた。
長沼監督は続ける。「東京オリンピックで、アルゼンチンに勝った。勝利の興奮の日本のローッカールームに、メンバー落ちした小沢君が駆け込んで来ました。涙、涙の抱擁でした」
◆サッカー選手の宿命
オリンピックから除外されることは、選手にとっても、はずす方にとっても、つらいことに違いない。オリンピックが終わって後、クラマーさんは小沢が勤める東洋工業のある広島に行った。同行した岡野はいう。
「クラマーさんは、小沢君を外したことに多少ともオブリゲーション(責任)を感じていたようです。小沢夫妻を呼んで夕食を共にした。奥さんは、オリンピックに出れなかったことをやはり残念がっていたようです」
クラマーさんは「オザワとは、いまでもいい関係にある。彼がメルボルンやロサンゼルス駐在だったころ現地で会った。わざわざマツダの車を手配してくれて、何週間も貸してくれて大いに助かった。奥さんのこと? 彼女は彼と結婚する前から知っているが、奇麗でしっかりした性格の人だ。オザワはお酒が好きだから、こういう奥さんが必要である」とくったくない。
代表に選ばれるか選ばれないかは、クラマーさんのいう通り、サッカー選手の、また代表クラスの選手の宿命のように思えてくる。あきらめるか、がんばるしかない。
東京オリンピックの19代表には、結局ソ連・欧州遠征チームから、この小沢とバックスの西山孝朗の2人がはずれた。2人に代わって、チームのまとめ役として、64年度ムルデカ大会(8月22日−9月6日)にコーチとして参加した平木が主将として加わったほか、若手の森孝慈(早大)が入った。
★
クラマーさんとの会話(26) 「W杯参加32カ国は」
中条 かってワールドカップなどで、日本はいつも韓国に勝たなければ代表になれなかった。だが、最近はアジアから5チームも代表になれる。韓国と試合しなくても代表になれる。本大会が16から32になったのは多すぎやしませんか。
クラマー 16の方が大会としては、すっきりするし、レベルの高い、内容の濃い試合が多くなると思う。だが、世界への普及という点では32は仕方ない。もし代表になれなかったら8年間、もしくは12年間もW杯に出れない。するとサッカーの進歩が遅れる。日本も出場できなくなる可能性がある。そうすると世界のレベルに追いつけなくなる。
中条 でも、試合が多くなったからPK戦で勝負をきめることになる。あれはよくないのでは。
クラマー いや昔はクジで勝者を決めていた。クジよりはマシだ。昔、FCケルンとリバプールがドローになり、コインで決めることになった。ところがグラウンドが悪く、コインを地面に落としたら斜めにドロに突き刺さった。それなのに審判はリバプールの勝ちにしてしまった。それよりはPKの方がいい。
中条 なるほど。
クラマー PKが不公平だというのなら、PKの練習をすればいい。ドイツはそれ用の練習をしている。最初のキッカーの時に、キーパーは苦手の方にセービングする。すると相手はああこちらが得意なんだな、と反対側にける。そんなのも作戦の一つだ。
中条 ドイツでは、そんなことまで考えて練習しているんですか。すごい。
「クラマー取材ノートから」に対するご意見・ご感想をおよせください。
こちらから。
|