14.
地方に種を蒔く
◆全国を汽車で回る
1961年夏のドイツ合宿から帰国した日本選手団とともに、再び来日したクラマーさんは、今度は地方の講習会に全国を駆けずり回った。北海道へも九州へも、すべて汽車だった。
模範演技を見せるクラマーさん。 |
たいていは岡野俊一郎か平木隆三が同行したが、時にはクラマーさん一人で夜行列車に乗ることもあった。
当時の講習会の日程表を見ると、クラマーさんは移動日を除いてほとんど連日にわたって、中学生、高校生、実業団、教師などあらゆるレベルの選手たちを教えている。
なぜこんな強行日程になったのか。皮肉な見方になるが、日本蹴球協会の台所が苦しかったこともある。
◆小野卓爾の功績
そのころ会計など事務方を引き受けていたのは小野卓爾常務理事(故人)だった。代表チームの経費などの捻出、やり繰りをほとんど一手に引き受けていた。ベルリン・オリンピックのマネジャーだったが、その栄光を引きずることなく、事務方ではクラマーさんを支える一番手だった。
協会の仕事のかたわら、中大監督を務め1962年の全日本選手権(京都・西京極)で、学生現役チームを優勝させるなど、指導面でも実績を残していた。その小野が声をひそめ、冗談めかして打ち明けてくれたことがある。
「クラマーさんが地方で講習会をやっている時は、ホテル代や交通費は地方がもってくれる。それだけ東京でのホテル代が倹約になる。ありがたいことだ」
これは小野の本音だった。そう言いたくなるほど、財政的に豊かでなく、またクラマーさんは献身的だった。無報酬だったのに、文句ひとつ言うことなく全国を巡回した。
◆家族のようなもの
全身全霊を捧げる、という言葉がぴったりするほど、クラマーさんは一生懸命でエネルギッシュだった。相手が小学生だろうと、代表選手だろうと、真剣さにおいて区別はなかった。そんな姿は、みんなの心を打たずにはおかなかった。当時を述懐しこう語る。
「日本での仕事は、その内容からして、もちろん長くかかりそうだった。だが、私にとって新しいものを作り上げる、この仕事は魅力あるものだった。やり甲斐のある課題を持ち、それをやり遂げなければならないという責任感を持ち、お互いに好意を持っておれば、気持ちは自然に通じ合うものである」
「仕事によって友人が増え、経験を重ね、日本との関係も深まっていった。日本は私の第二の故郷であり、多くのの家族を持つことができた」
「いま思い出しても、日本各地での快い思い出が残っている。何か新しいことをやろうとした時、皆で協力して新しい方向へ向かおうとする交友の輪ができた。私が行くところ、いたるところで大歓迎され、私の考えに熱心に耳を傾け、理解し同調する友人を持つことができた。仕事に追われていたので、生活を楽しむことは二の次だったが、スポーツのいいところはすぐに良い友人ができることである」
「古いサッカー選手や大学教授、その友人たちと深夜まで語り合った。すばらしい時間だった。時には、同じ日に二つの会合があり、急いで次の会場に向かうなど会合のハシゴも楽しかった」
◆古い日本も知る
「楽しむ余裕はなかったと言ったが、いろんな所を見物させてもらった。とくに京都は印象深かった。城、それにまつわる大名やサムライの話。寺、神社、その内部の絵画や壁画。そして数々の博物館。平安神宮での鳴き廊下も印象に残っている。龍安寺の石庭を何度か見た。私は石庭の前に座るのが好きだった。しばらく座っていると瞑想状態に入ることができた」
「各界の著名人、例えば画家、剣道家、相撲取りなどを知ることによって、いろんなことを学んだ。相撲の激しい稽古を見たり、京都では剣道家の立ち会いを見て、そこで『残心』という言葉を聞いた。弓道家とも知り合いになり、的を見て考えて射るのではなくて、心の目で射るということも聞いた。ここらあたりドイツ人の私にもすぐに理解できた」
「ドクター・ノズが歌舞伎に連れて行ってくれた。歌舞伎は興味深く好きである。非常になまめかしい。北海道では、アイヌ村、鶴、熊などを見た。日本の冬景色はすばらしい」
などなど、クラマーさんの思い出は終わりそうにない。
◆4つのセンター
だが、全国を回りながら、クラマーさんが気になっていたことがあった。それは、いっしょにデュイスブルクで合宿した代表選手たちのことだった。
「彼らは、自分のチームに帰ってどうしているだろう。十分なトレーニングを続けているだろうか。だらしない生活を送っているのではなかろうか」
こうして生まれたのが、4つのトレーニング・センター構想である。
それまでの日本代表は、実業団や大学から選抜してチームを編成、わずかな合宿期間を経て海外に遠征した。大会などで試合をやっているうちに、選手は気持ちの上でまとまり、大会が終わるころ、なんとなくチームが出来ていた。
だが、帰国して職場や大学に帰るとまたバラバラになった。折角つくったチームが壊れた。日本の強化方法は、まるで作ってはこわし、こわしては作るという形で、非能率、まったく一貫性がなかった。
「これではいけない。会社や学業といったアマチュアの制約があるが、何とかして代表チームのレベルを維持しなければならない」
代表選手を1カ所に集めて訓練するのが、むつかしいのなら、クラマーさんの方が、東京、関西、広島、八幡(いまの北九州)と4つの強化拠点に出掛けて指導しようというものだった。
選手が動く代わりに、クラマーさんが移動する逆転の発想だった。
★ クラマーさんとの会話(14) 「鯉のぼり」
中条 たしか62年暮れでした。サッカー担当記者が、クラマーさんを相撲のチャンコ鍋にご招待したことがありますね。東京在住の記者10数人が集まりました。
クラマー そうそう相撲取りの栄養食だという説明を受けたのを覚えている。あまり食べなかったが。
中条 あの時、みんなで何かプレゼントしたいと言ったら「鯉のぼりがほしい」とおっしゃった。冬で時期はずれでしたが、浅草の問屋を探してやっと見つけました。
クラマー そうそう思い出した。どこで見たのか忘れたが、地方を回っている時、サカナが空を泳いでいるのでびっくりした。もらった鯉のぼりは、長い間デュイスブルクのスポルト・シューレで飾っておいた。非常に珍しがられたよ。
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