(43)世界選抜チーム監督に
◆7カ国から16人
1968年メキシコ・オリンピック直後の11月6日リオデジャネイロで、ブラジル選抜が世界選抜チームと対戦した。ブラジルのワールドカップ初優勝の10周年を祝う催しだった。クラマーさんは、選抜チームの監督をつとめた。
「友人のサー・スタンリー・ラウスFIFA会長が、私を監督に推薦してくれた。非常に名誉なことだった」
「選手選抜を一任されたので、私は個人的な好みで選ばせてもらった。66年ワールドカップで、西ドイツと対戦した選手を多く選んだ。彼らがどんなプレーをするか、よく判っていたからだ。選手たちのクラブに直接電話をかけて『出てほしい』と頼んだ。7カ国16人が参加してくれた」
「すごい顔触れだった。キーパーはヤシン(当時ソ連)とマズルケビッチ(ウルグアイ)。バックスはノバック(ハンガリー)、マルゾリーニ、ペルフーモ(アルゼンチン)、シェステルネフ(ソ連)、シュルツ(西ドイツ)。ぺルフーモは東京オリンピックで、日本に負けたアルゼンチン・チームにいた好選手だ」
「中盤はズッチ(ハンガリー)、オベラート、ベッケンバウアー(西ドイツ)。フォワードはアマンシオ(スペイン)、メトロベリ(ソ連)、アルバート、ファルカス(ハンガリー)、ジャイッチ(ユーゴ)、ローシャ(ウルグアイ)を選んだ」
「ハンガリーのメキシコ・オリンピック優勝チームからはズッチとノバック、ファルカスの3人がリオに来てくれた。ズッチは日本に5−0で勝った試合でハットトリックをし、ノバックはPKを2本決めた。アルバートはフルミネンセ、アマンシオはレアル・マドリーでプレーしていた」
◆釜本の不参加は残念
「イングランドの選手は日程の都合で来れなかったのが残念だった。だが、私はジョージ・ベストだけは、何とか参加してほしいとマンチェスター・ユナイテッドに頼み承諾を得ていたが、その彼も直前に怪我をして来なかった。ブラジルの人たちに、ジョージのすばらしいプレーを見せたかった」
「釜本邦茂に声をかけたが、結婚式で来れなかった。ヤンマーの山岡専務が、すでに300人の出席者に招待状を出し、式場も手配していたというのでは、無理がいえなかった。ベッケンバウアーらみんなは釜本に会いたがっていた。本当にがっかりだったよ」
「私の希望で、平木隆三がマネジャーとして同行してくれた。平木は日本代表チームから離れて、メキシコから直接ブラジル入った。平木は、翌69年の検見川でのコーチングスクールでも、助手として私を助けてくれた。彼は黙々として準備万端を整える有能なマネジャーだった。後に名古屋グランパスの監督になって、リネカーを雇ったが、うまく行かなくて苦しんでいた。私は名古屋に行ってアドバイスしたことがある」
◆ボールが通訳
「各国の選手とともに生活し、愉快な思い出だけが残っている。言葉がマチマチなので、通じにくい時もあったが、私は、おおいに父性を発揮して、各国語でまず『おはよう』、『おやすみ』を覚えて、朝と夜、必ず各部屋を回って選手に声をかけて回った」
「2人部屋だったので、左ウィングのジャイッチと右ウィングのアマンシオを同室にした。ジャイッチはスペイン語を話せないし、アマンシオはユーゴの言葉がわからない。だが、二人ともすばらしい選手なので、言葉なんかわからなくても同室にしておけば理解しあえるだろうと思っていた。私が『われわれにとってボールが通訳なんだ、お互いの動きを話し合ってやれ』と言ったら、灰皿やコップなどを使ってポジションチェンジなど打ち合わせていた」
◆いい男ヤシン
「キーパーのヤシンとバックスのシュルツを同室にした。シュルツはロシア語が話せなかったが、とてもいい友人になった。ヤシンはいい男で、ベッケンバウアーやオベラートとも友人になった。引退後も、常に連絡をとり、ソ連チームがドイツに遠征して来たとき、声をかけたらヤシンは必ずチームに同行してきた」
「ヤシンは片足を切断した後も、ソ連チームに同行してきた。こちらからバイエルン・ミュンヘンが、ソ連に遠征した時も、国内をずっと同行してくれた。冗談がうまい、いい奴だ。リオでは、すでに39歳になっていたが、史上最高のキーパーだった」
「ヤシンが片足を切断したのは、彼はタバコを吸うので、それが原因で血液の病気になったのではないかと思う。カールスバーグ(チェコ)遠征に同行して来た時に加減が悪くなり、そこですぐに診てもらったら切断しなくてもよかったと思うが、モスクワで主治医に診てもらうからと言って帰国した。それが治療を遅らせて片足切断することになってしまったようだ。ベッケンバウアーは『ぼくのライバル、そして友人』という本の中でヤシンに大きなスペースを使って書いている。(この本では、マイヤー、ミューラー、ネッツアー、ゼーラーらドイツ選手のほかリベラ、エウゼビオ、チャールトンら外国選手のことにも触れている)」
◆リベリーノのキック
「リオに着いて飛行場から町へ行く時、バカでかい看板があった。その中で全然知らない新人選手がニコッと笑って歯を磨いていた。歯磨きの宣伝だった。同行のブラジルの人が『この若い選手はキックがすごいんだ。今度の試合に出るはずだ』と言った。それがリベリーノだった」
「マラカナン・スタディアムは周囲がえぐれていて、選手のベンチが地面より低くてグラウンドがよく見えない。それで、私は試合途中からベンチの上にボールを置いて、その上に座ってグラウンドの方を見た。そのとたん、リベリーノが左足で30メートルのロケットのようなシュートを決めた。ヤシンが飛んだが届かなかった。開始20分だった」
「リベリーノは小柄だが、すばらしい左足を持っていた。アウトとインをうまく使ってすごかった。74年西ドイツ大会ではペレが出なかったので、リベリーノがペレの背番号『10』をつけて出場した。彼は第2次リーグの東ドイツとの試合で、30メートルあまりのFKを決めた。1列に並んでゴール前を固める相手選手の間を、針を通すような正確なキックを決めた。ブラジルは、この1点を守り切った」
クラマーさん率いる世界選抜の試合会場マラカナン・スタディアムには、公式発表で9万8千人が集まった。20分リベリーノが決めたのち、33分に世界選抜のアルバートが1−1の同点にし前半を終わった。後半終了直前ブラジル選抜は、トスタンが勝ち越し点をあげて2−1で勝った。
リオでの世界選抜チーム。後列左から2番目がクラマーさん。(提供クラマー)
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クラマーさんとの会話(43) 「リベリーノの思い出」
中条 リベリーノはJリーグの静岡で監督をしていたことがあります。
クラマー 私がサウジアラビアのアル・イティハドの監督をした時、彼はプレーしていた。リーグは10チームで年間18試合、のちに12チームで22試合やった。彼はもうかなり年をとっていたが、30点から40点を平気でとっていた。その75%はフリーキックからだった。
中条 えっ、そうですか。
クラマー ボールを持ってペナルティエリア付近をうろうろしていると、1人がくる、それをかわす、2人目がくる、それをかわす。3人目か4人目あたりでわざと倒れてFKを取る。そして決めるというのがリベリーノのパターンだった。
中条 目に浮かぶようです。
クラマー サウジでは当時規則で外人選手を雇ってもいいが、キーパーだけは雇うのが禁止されていた。自国のキーパーに経験を積ませて育てるためというのが、その理由だった。そのせいでみんな下手くそで、最初の年、ダウリというチームが優勝したが、いいキーパーがいるチームがチャンピオンになるという状態だった。キーパーが下手だからリベリーノはボコボコ得点を入れた。彼は年をとっていたので、よく練習をさぼったが、「今日はフリーキックの練習だぞ」というと「それならやるよ」と練習に出てきた。
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