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クラマーさんはスパルタ式
◆試合、そしてトレーニング
1964年、いよいよ東京オリンピックの年が明けた。開幕までちょうど10カ月。そのころの日本代表チームの印象をクラマーさんはこう語る。
「前年、京都ではシェーン監督の西ドイツに堂々と勝った。だが、まだ若くて未完成で青臭い感じだった。例えば若い未熟なボクサーが、経験が浅いままKOされてショックを受けてやめてしまう。ちょっとしたことでチームが崩れる。そんな危うさを持っていた」
では、この未完成なチームが、勝つにはどうすればいいのか。
「サッカーは学問ではない。いちばんの先生はヘルベルガーでも、長沼でも、私でもない。試合そのものである。試合を経験すること、いろんな試合を見ること。それによって、チームにとって何が大切で、選手に何が必要か、何が余計なものかを教えてくれる。それに基づいてトレーニングする。試合、試合、そしてトレーニング、トレーニング。その循環しかない」
ある程度、形が出来てきた日本代表だが、オリンピックまでやるべきことは、クラマーさんの言う通りだった。スポーツでは休むことがいちばん拙い。試合とトレーニングを休めば、せっかく上昇中の調子がすぐに元のもくあみにもどってしまう。
◆東南アジア遠征
まず試合だった。1月27日、東南アジア遠征メンバーが発表された。岩谷俊夫団長、長沼監督、岡野コーチ以下選手20人。東京オリンピックへは、この20人から5人がはずれ、試験期だったため遠征に参加できなかった学生、横山(立大)小城、山口(中大)森(早大)の4人が加わった。東京オリンピックに参加するチームの大体の輪郭は、この遠征の時、すでに出来ていたと言っていいだろう。
15人の中には、学生ながら杉山(明大)と釜本(早大)の、後の名コンビがいた。杉山は清水東高時代にアジア・ユース大会に第1回(59年)から3回連続出場し、日本代表としても61年から欧州遠征でデュイスブルクへも行き、ムルデカ大会にも参加していた。
杉山より3歳下の釜本は、それまで代表Bチームに2回選ばれ、ソ連遠征やプレ・オリンピックを経験していた。日本代表は、この時が初めてで、77年6月に代表を引退するまでの長い釜本時代が続く。
日本代表はバンコク、クアラルンプール、イポー、シンガポールを転戦して13日間に6試合とかなりの強行日程をこなした。4勝1分1敗とまずまずの成績を残した。釜本は杉山とコンビを組んで第2試合から5試合(途中出場を含む)に出場し、3得点を挙げた。
◆釜本「熊になりたくない」
クラマーさんは、初めて釜本に会った時の印象を語る。
「釜本とは61年、京都でやった若い選手の講習会で初めて会った。京都サッカー協会の会長だった藤田さんに連れられてグラウンドに入ってきた。講習会を手伝っていてくれた岩谷さんが『将来性のあるいい選手です』と紹介した。体がデカイので、どんなサッカーをやるのかなというのが最初の印象だった」
「藤田さんが『テストしてみてください』と言ったので、『OK』と言ったら『靴を持って来てない』という。『靴がなくて、どうやってテストするのだ』とからかった。そんないきさつがあって、やがてどこかで調達して来た靴をはいて試合をやらせた」
「釜本は、パッと見てすぐに持って生まれた才能を感じた。誰にも教わっていなくて荒削りだったが、雑草のような強さがあった。同年代にくらべてパワーがあった。ゴールをめざす意欲、ボールを取りにいく力強さ、あきらめない精神力は光っていた。鍛え方次第ですごい選手になると思った」
「もちろん欠点もあった。そのころの動作は、まだまだ『北海道の熊』に過ぎなかった。『きちんとトレーニングしなくちゃ、熊は熊で終わってしまうよ』といったら、『熊』と言われたのが、彼はとても不満だったらしい。後に私のサイン帳に『北海道の熊になりたくない』と書いている」
クラマーさんへのサイン帳に書かれた釜本のメッセージ。 |
◆杉山「クラマーさんを恨んだ」
「釜本は62年4月のバンコクでのアジア・ユース大会でデビューした。森孝慈も、山口芳忠もそうだ。岡野がレポートしてくれた。彼らも、見込みのある選手だということが分かっていた。私はずっと注意深く彼らを見続けてきた。この時代のユースの選手がオリンピックの主力になった」
「62年の合宿は3週間、毎日毎日午前中2時間、合計で約50時間、ありとあらゆるテクニックを釜本、杉山、森らに徹底的に教えて鍛えた。釜本はいいシュートを盛んに決めたが、彼のシュートはきちんと学習させたものだった。釜本以前の選手、例えば川淵らはきちんと訓練を受けていなかったから不安定だった」
「みんなの練習の後、とくに杉山−釜本には、さらに30分間ずつ集中的に特訓を課した。彼らが得点をとる。それが日本の勝利のギャランティ(勝利を保証してくれる)になると思った。だから徹底的に鍛えた。その後、2人は日本チームを支え、メキシコの銅メダルにもつながった」
「杉山に初めて会ったのは61年4月だった。傑出した選手だった。走るのが速く、ドリブルのうまいインターナショナルプレーヤーだった。彼の能力を見込んでトコトン鍛えた。他の連中が風呂や夕食が終わっているのに、トレーニングを続けさせた。メキシコ・オリンピックの20年後の1988年に彼に会った時、当時のことを振り返って『同じことを何度も何度もやらせるクラマーさんを恨んでいた』と、思い出話をしていた。トレーニングとは何度も繰り返すことによって、考えるのではなく自動的にそうなるように体に覚えさせることである」
◆勝つための武器
「大事なのはタレント(素質)だけではなく、必要なのはアルバイト(練習)だ。いつも釜本と杉山を指名するので、杉山は『またオレか(インマー・イッヒ)』とこぼしていた。杉山−釜本は、勝つための武器だった」
「厳しいトレーナーは、選手からの抵抗があるかもしれないが、厳しくないと選手は練習に慣れてしまい、効果はない」
クラマーさんは、論理的によく考えたドイツ人らしい合理的な指導法で、選手を導いたと考えられがちだが、実は凄いの上にさらに輪をかけたような、物凄いスパルタ式なのだ。1段目の階段に足を掛けたら、エスカレーターのようにそのまますーっと最上段まで運んでくれるのを期待するような甘いものではない。
釜本は当時を振り返ってこう嘆く。「クラマーさんは勝つことを教えてくれた。今の日本の指導者は、サッカーを教えるが、勝つことを教えない」
スポーツで勝つには、究極的にはスパルタしかない。クラマーさんを見ていて、私はそう考える。
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クラマーさんとの会話(24) 「才能ある選手を探す方法」
中条 素質ある選手を探す効果的な方法は。
クラマー 試合をやらせるのがいちばんだ。日本で有望選手を探すテストを見たことがあるが、サッカーと何の関係もないことばかりやっていた。例えば、等間隔に物を置いて、その間をジグザグ・ドリブルをやらせたりしている。動かない物体の間をいくら巧みに早くドリブルし、擦り抜けたとしてもまったく意味がない。日本だけでなく、このようなテストをほかの国でも、何100回もみてきたが、こんなバカバカしいことはない。
中条 なるほど、そうですね。
クラマー ドリブルは動く相手の間をフェイントを掛けながら進むものだから、これで才能を見いだせると思うのはナンセンスだ。選手が練習の中で、コンディショニングのためにやるのなら別だが。
中条 試合で才能を見抜くポイントは。
クラマー 味方と相手を見ながら効果的な動きができるか。意図を持ったプレーができるか。頭のいいプレーができるかを見るわけだ。何も広いグラウンドでなくてもいい。人数が揃わなかったら4対4でもいい。とにかく試合形式でプレーさせることだ。
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