(38)実力を上げる日本代表
◆アジアで勝つこと
長沼監督が岡野コーチとコンビを組んで約2年、64年東京オリンピックでアルゼンチンを破った日本代表は、その後も毎年のようにソ連・ヨーロッパに遠征するなどして、順調な進歩をとげていた。
だが、完全に安定した強さを身につけたかといえば、そうでもなかった。それまでアジア諸国に対し、必ずしもいい成績を残していなかったからだ。
アジア競技大会では、古い話になってしまうが、58年(第3回・東京)と62年(第4回・ジャカルタ)では1次リーグすら突破できず惨敗した。
アジア勢の力のバロメーターの一つともいえるムルデカ(マレーシア独立記念)大会では、58年創設以来、第10回の67年大会まで、2カ国の同時優勝3回を含めて、マラヤと韓国が各3回、インドネシア、台湾、ビルマが各2回、ベトナムが1回優勝している。日本は優勝はおろか、参加国の少なかった63年大会の2位を除き、すべて下位に甘んじていた。
日本は時に代表Bチームを出場させたこともあり、宿敵韓国にはもちろん、ドリブルやボール扱いなど個人技を発揮する東南アジア勢にも、暑さや連戦の疲労も重なって、いつも予想以上の苦戦を強いられていた。
クラマーさんが、いつも心配していたのは、このアジア対策だった。東京オリンピックでは予選免除だったが、将来はそうはいかない。
「アジアで勝つのは簡単ではない。だが、完璧に勝てるようにならなくては、世界への道は開かれない。日本はアジアの他の国に劣っているわけではない。そのことを肝に命じてほしい。ベストを尽くし、倒れるまで戦い、練習した通りのプレーをすれば必ず勝てる。勝利への不屈の意志と冷静さを持って臨むことだ」(62年アジア競技大会後に、クラマーさんが日本協会に寄せた手紙から)
◆ヘドを吐きながら戦う
アジアで勝つこと。それは長沼監督以下全選手の気持ちだった。
第5回アジア競技大会が、66年ワールドカップ・イングランド大会と同じ年の12月バンコクで開かれた。日本代表は、今度こそ優勝、という強い決意を持って臨んだ。2年後にメキシコ・オリンピックを控えていたからだ。
メンバーは東京オリンピックとほぼ同じで固定していた。ゴールキーパー横山。4FB片山、鈴木、宮本征、山口。中盤も宮本輝、八重樫、小城。フォワードは釜本、杉山、それに川淵の代わりに松本が加わっていた。文句のつけようのない歴戦の仲間ばかり。
開幕戦インドに2−1。続くイランは審判の不手際もあって、関係のないところで横山や片山がイラン選手に殴られたり、八重樫が負傷して使えなくなる事態が生じたが3−1で勝ち、続くマレーシアにも1−0と3戦全勝で1次リーグを突破した。
2次リーグは5−1タイ、5−1シンガポールと完勝。体力を消耗しながらも、まず順調だった。
準決勝は、1次リーグで荒っぽい試合になったイランとの再戦になったが、暑さと連戦のせいで攻めきれず0−1で敗れてしまった。長沼監督はこう反省する。
「2次リーグから3日連続の3連戦で、みんな体力の限界にきていた。ヘドを吐くまでやれというが、実際にヘドを吐きながら戦った。あそこまでやった選手を責めることはできない」
「すごい暑さだった。そんな環境でも絶対的に不安をなくするためには、相手に対して常に7分3分以上の優勢さを保たなければならない。そのくらい力の差がないと勝てないということ。さらに力と技を磨かねばならないと、みんなで話し合った」
4日間の4連戦目の3位決定戦で、シンガポールを2−0で下して、日本はすこし面目を保った。優勝は、イランを1−0で下したビルマだった。
◆ラウス会長が絶賛
会場にはFIFAのサー・スタンリー・ラウス会長とクラマーさんが来ていた。両氏とも日本代表の進歩をほめた。ラウス会長はバンコクから帰国の途次に立ち寄った東京での記者会見でこう語った。
「この数年間の日本のめざましい発展ぶりはヨーロッパでも南米でも例を見ないことだ。3位にとどまったのは、日程が苛酷だったからで、そうでなければ日本が優勝していただろう。とくに2次リーグでシンガポールから5点をあげた試合は、非常に高度なものをみせてくれた。しかも、日本はフェアで審判に対する態度も立派だった」
「日本協会の野津会長の努力で西ドイツからクラマー氏を招いた功績は高く評価されてよい。また、毎年ヨーロッパ遠征をやって経験を積んだことが、大いに役立ったと思う」
◆欧州感覚の試合
クラマーさんの身分は、まだ西ドイツ協会に属し、シェーン監督のアシスタントだったが、内定していたFIFAコーチの仕事のためバンコクに来ていた。岡野コーチは報告書の中で、初戦のインド戦についてこう書いている。
「作戦的に成功したと思う。特に八重樫、小城、宮本輝の中盤でのリードはよく、観戦していたクラマー氏からほめられる。しかし、フィニッシュの悪さが問題」
岡野コーチは、クラマーさんにほめられたことがうれしかっただろうと思う。そのころ、アジアの国々は個人技に頼る古い(?)サッカーをやっていた。それに対し、日本代表はクラマーさんの指導で、中盤を制して、チーム全員で守って全員で攻め、チーム全体でボールを動かし、オープンサイドから相手を崩すヨーロッパ的な感覚のサッカーを見せた。
クラマーさんの日本代表への1歩進んだ指導の効果を、感じさせたのが、66年のアジア競技大会だった。
さらに、同じ年ロンドンでワールドカップを見たことも大きかった。いい試合を見る。それが、選手を強くする。世界クラスの選手が、栄えある舞台で根を限りに、全身全霊を傾けて、技と力を出し切って戦う。その迫力、そのすごさ。いつかあんな舞台で試合をしてみたい。そんな気持ちが、ほぼ固定化した日本代表のメンバーに一本筋の通った力強い気持ちを植え付けてくれたのではないか。
◆コーチ養成講座を作れ
クラマーさんは、66年12月29日アジア競技大会の閉会式の日、バンコクのホテルのプールサイドのベンチで、日本蹴球協会の野津会長と懇談している。
クラマーさんは2点を強調した。一つは代表チームの強化のためさらに多くの国際試合をやること。それも金儲けの興業的な色彩の濃い、国内での試合でなく、外国に遠征して国際試合の感覚を磨くこと。
いま一つは指導者の育成。ケルンのスポーツ大学に付属したコーチ養成講座のようなものを日本の大学でも作るべきこと。それが、底辺を広げ、やがてトップ選手のレベル向上につながる。
クラマーさんは「短期的な目標はこれ、長期的な目標はこれ」という言い方をよくする。また話していて、話題がとんでもない方向にそれることがある。常に、並の人間の数歩先のことを考えているわけだ。
メキシコ五輪前にTV(東京12チャンネル)に出て抱負を語る長沼監督(中)と、岡野コーチ(右)。左端は筆者、中条。
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クラマーさんとの会話(38) 「日本は第二の故郷」
中条 東京オリンピック前、日本でのクラマーさんの肩書はアドバイザーでした。オリンピック後は、どういう肩書でしたか。
クラマー 肩書? そんなものないよ。FIFAコーチをやっていたからね。時々、気が向いたら日本に行った。協会の小野卓爾さん(常務理事)に「行っていいか」と電話したら「いいよ」というから行った。なんと言っても、みんな友人だし、日本は第二の故郷だからね。
中条 それで日本代表の面倒をみておられた。
クラマー そうだね。教えるのが好きだから。でも、65年から68年のメキシコ・オリンピックまでの4年間、FIFAコーチの仕事以外で、日本代表を指導したのは実質6カ月くらいかな。
中条 えっ、そんなものだったですか。
クラマー 重点課題を与えた。例えば、世界で試合するには、ロングパスを使わねばならぬと、ロングパスの試合をやらせたり、リベロを導入して防御の練習をさせたり。かなり激しくやった。
中条 激しく、ですか。
クラマー 現在のインターナショナル試合では、攻撃が防御を伴い、防御が攻撃を伴う。各人が、ボールが敵にあるか味方にあるかによって、攻撃と防御を使い分けなくてはならない。それを自動的にやるためには練習、練習で体に覚えさせなければならない。日本のトレーナーはどうやらハードで厳しく、繰り返して練習させるのが苦手のような印象を持っている。だから、私はよけい厳しくやった。
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