12.
クラマーさんの分析力
◆ドイツ方式など無い
クラマーさんが嫌っていることがあった。それは、前回でも触れたように、一部の関係者からだが、「日本選手にドイツ方式は向かない。小柄な日本人だが、日本の良さがある。それを無くしてしまっては何にもならない」と言われることだった。
クラマーさんはこう反論する。
「サッカーの指導法には、ドイツ方式とか何々方式とか、そういうものはない。選手にはそれぞれ特徴、個性がある。それは国籍とか民族とは関係ない。そんな彼らに画一的な方式を押し付けていいはずはない」
「日本代表が初めてドイツに来た時、2人のアシスタントとともに非常に興味深く、克明に日本選手のトレーニングや試合を観察した。毎日、夕食の際に、日本に何があり、何がない、だからどういう風な練習をしなければならないと話し合った。私は、ドイツ選手にも、同じようにまず観察することから始めている。そして、私は日本選手の弱点を数日間ですべて見抜いた」
「とはいっても、私がいつもやっているトレーニングを押し付けるのではなく、日本選手の個々に合ったトレーニングを工夫しながらやった」
◆サッカー名人
クラマーさんは、ことサッカーに関しての分析力と記憶力はすばらしい。例えば「何年何月のどこの試合の何分ごろ、君はこんなすばらしいプレーをやった。だが、その後こんな拙いプレーをした」などと、ずばり言い当てて、選手をしばしば苦笑させた。
囲碁や将棋の名人は、初手から棋譜が暗記できる。クラマーさんは、まさに「サッカー名人」といえた。
クラマーさんの愛弟子の一人ベッケンバウアーは、今でもクラマーさんのことを『監督』と呼ぶそうだが、彼は自伝の中で、こう言っている。
「監督ほどサッカーのことをよく知っていて、サッカーについて人を惹きつける話のできる人物を、私は他に知らない」
「バイエルン・ミユンヘンの監督として、クラマーさんが初登場した日(1975年1月)、試合後の記者会見が数時間続いた。私たちは、その日試合に負けたのだが、敗北の理由がその時ほど根本的に説明されたことは、それまでなかった」
要するに、クラマーさんは分析が好きなのである。
そして、その分析の上に立って、「練習とは、常に試合を考えたものでなくてはならぬ。試合を無視した練習はナンセンスだ。試合での自分たちの弱点を見つけ徹底的に修正し、相手の弱点を衝く武器を磨くこと。練習はケースバイケース、試合が教科書だ。ドイツ方式などない」
◆スピードを生かせ
「サッカーでは、いろんな技術が必要だが、まずプレー全体を見る能力、ロングパスをする技術、それを受け取った選手がコントロールする技術、これらがすべて揃って初めて機能するものだ。だが、日本選手は最初のころそのすべてに欠けていた。ただし、日本選手はスピードがあった」
技術が先か、スピードが先か。その兼ね合いとともに「日本サッカーはどういう方向へ向かうべきか」は、当時のサッカー界での重要な論争だった。
「竹腰さんと、この点についてよく議論した。彼は、日本人はせっかちであり過ぎる。テンポを落としてもいいから、まず正確な技術を身につけて、効果的なプレーをしたほうがいいという主張だった。それほど竹腰さんも、日本選手の技術不足を感じていたようだ」
「私は逆で、それではスピードという日本選手の特色を失ってしまう。テンポを上げる中で正確な技術を、徹底的に練習して身につけさせるべきだ。国際レベルに達するためには、スピードを生かしながら技術にこだわって行くべきだ。日本は絶対にスピードを失ってはならない」
◆再び欧州遠征
1961年7月末から9月下旬にかけて、日本選手団は前年に続いて再び欧州遠征を企てる。団長は竹腰重丸、監督は高橋英辰で、前年に続いて同じ顔触れだった。
変わったのは、コーチとしてクラマーさんが同行すること。選手に鎌田光夫、杉山隆一ら7人が新しく加わったこと。途中でクアラルンプールに寄ってムルデカ大会(マラヤ独立記念大会)に参加し、そのまま欧州に向かうことだった。
そしてデュイスブルクのスポルト・シューレで約4週間トレーニングしながら、各地でクラマーさんが選んだ相手と6試合した。
成績はまったく芳しくなかった。ムルデカではインドに勝ったものの、地元マラヤとベトナムに敗れ、1勝2敗で予選リーグで敗退。欧州でも1勝5敗で、まだまだ日本のレベルは低いことを証明したかたちとなった。
「だが…」とクラマーさんはいう。
◆強くなると予感
「オランダに遠征して、東オランダ選抜に5−3で勝った。その時、日本はやがて強くなると確信した」
「オランダはプロが作られるときで、スペインでやっていたプロ選手たちが帰国し、ワールドカップに出たベテランを交えて非常に強かった。相手の中心選手アブレンツトラは、今でいえばジダンのようなすばらしい選手だったが、思うように試合が運べないのでカリカリしていた」
試合後、クラマーさんは、ヘルベルガーに電話した。
「どうだった」
「5−3でした」
「日本はどうやって3点も入れたのか」
「いや、日本が5点です」
ヘルベルガーはびっくりして大笑いになった。
「日本には注意しろよ。点をとることを覚えたら、いまにドイツが勝てなくなるよ」
1961年欧州遠征。デュイスブルクで指導するクラマーさん。
★ クラマーさんとの会話(12) 「分析好きが幸い」
中条 クラマーさんがサッカーの指導者になったきっかけは何ですか。
クラマー 捕虜から解放され、ドルトムントに帰って仕事を探している時、知り合いの記者が、新聞に「コーチ求む」という広告が載ってるよ、と教えてくれた。
中条 スポルト・シューレのですか。
クラマー いや、リップシュタットという人口5万くらいの、ドルトムントから汽車で1時間ばかりのところにある町のクラブだった。そこが次の日曜日にテストをやるというのだ。(リップスタットは後にルンメニゲの出生地として有名になった)
中条 どんなテストでしたか。
クラマー 日曜日に行ってみると30人くらい応募者がいた。テストは試合を見て、その分析レポートを書くというものだった。
中条 試合の分析ですか。クラマーさんのお手のものですね。
クラマー そう、それでただ一人、合格したというわけさ。それが、指導者としての私のスタートになった。
「クラマー取材ノートから」に対するご意見・ご感想をおよせください。
こちらから。
|