28.
さよならパーティ
◆言葉の魔術師
クラマーさんは言葉の魔術師と言っていいほど、実に多彩な名言を残している。
「サッカーは子どもを大人にし、大人を紳士にする」
「いい仕事をするためには、いい準備をしなければならない」
「サッカーは人生の鏡である。そこに人生のあらゆるものが映る」
「小さな戦いに勝った者のみが、大きな戦いの勝利者になる」
「意志あるところ、必ず道はひらける」
「ガールハントをし、酒を飲み煙草を吸いながら、一流選手になろうと思っても、それは不可能だ」
「勝者には常に新しい友人ができる。しかし、本当に友が必要なのは敗者の方である」
などなど。すべてを列記すれば数ページが埋まる。
私は、ぶしつけな質問をしたことがある。
「クラマーさんは時に応じて実に適切な格言や警句を発せられますね。心にジーンと響くと言った選手もいます。あれらの言葉は、その時々に思いつくものですか」
◆恩師ヘルベルガー
クラマーさんは答えた。「もちろん私が思いついたものもある。だが、大部分は恩師ヘルベルガーの言葉から引用させてもらっている。ヘルベルガーは本当にすばらしい思想の持ち主だった」
その時、私は、なんて正直な自分を飾らない、率直な人なのか。そして恩師ヘルベルガーを心の底から尊敬し、常々ヘルベルガーのような指導者になりたい、と思っておられるのかが判った。
人生の目標とする絶対的な人物がいること。これほどすばらしいことはない。たかがサッカーと言うなかれ。ドイツでは究極のサッカーをめざし、いろんな場面を想定し、試行錯誤を繰り返しながら、生涯をかけてサッカーに打ち込む人たちがいる。言葉は、そのエキスであり、それだけ歴史の重みがある。
選手の栄養にも気を使ったヘルベルガーと代表チーム専属コックのビンデルトさん。(クラマーさん提供) |
クラマーさんはヘルベルガーを愛し、ヘルベルガーの思想、体質を受け継ごうと懸命に努力した。かってクラマーさんは「私のヘディングする姿は、ヘルベルガーさんそっくりだと言われていた」と、得意そうに語ったことがある。日本の選手や関係者が、クラマーさんを愛し尊敬するのは、実はサッカーに打ち込む姿勢や人柄とともに、恩師を絶対的な存在として尊敬する真摯な姿があるからなのである。
◆クラマー・ドクトリン
「試合終了のホイッスルは、次の試合への準備の合図である」
この名言は、東京オリンピックの閉会式が終わった翌日の10月25日(日曜日)午後1時から東京・椿山荘で始まった「お別れパーティ」での、あいさつの最後に語られたものだ。クラマーさんは帰独を翌日に控えていた。
「東京オリンピックは終わった。だが、さらに前進するためには、のんびりしておれない。2年後のバンコクでのアジア競技大会、さらに4年後のメキシコでのオリンピックに向け、試合終了のホイッスルとともに準備を始めなければならない」
日本蹴球協会は、クラマーさんへの感謝を込めてリリー夫人と一人息子のデットマールU世をオリンピックに招待していた。家族に囲まれて、クラマーさんはこう語り始めた。
「私は、日本サッカーの将来に何の心配もしていません。今日、日本はアジア第1位であり、その地位を失うことはないと思います。しかし、その地位を確保するために、可能であること、力の及ぶことは、すべてなされねばならないし、途中で放棄することは許されません」
こう前置きして、クラマーさんは5つの提案を残した。
これは「クラマー・ドクトリン」とも呼ぶべき日本サッカー界発展の基本となるべき、後世に残る貴重なアドバイスだった。
◆毎年1回は欧州遠征を
1)代表チームの強化。そのためには、トレーニング(合宿)をやり、試合経験を積むこと。トレーニングについては、長沼、岡野、そして選手たちは、いかに、何をやるべきか、を(私が十分教えたから、身をもって)よく知っているはずだ。
試合経験については、毎年1回は必ずヨーロッパ遠征をすること、また日本国内で国際水準に達した相手と試合すること。
そのためには、マスコミ、選手の所属会社、全大学あげて協力態勢が必要だ。
2)リーグ方式。ヨーロッパ各国がやっているように、試合をリーグ方式にすべきだ。全国を統一するリーグがむつかしければ、例えば全国を4地区に分け、それぞれが毎週ホーム・アンド・アウェイ方式で試合をやる。1週間に5試合といったトーナメント方式では、体をこわすし、技術も進歩しない。出来れば2部リーグも作るべきだ。
3)コーチ育成システム。一定期間、一カ所に希望者を集め、必要なカリキュラムに基づき、集中的に多くの良いコーチを育てるシステムをつくるべきだ。そこで資格を得た人たちが、一流チームを指導すべきだ。
4)コーチ組織の充実。トップに指導的なコーチ(日本では長沼、岡野の2人)がいて、Aチーム、Bチーム、ユースや少年チーム。そしてさらにコーチ育成、指導についても責任を持つべきだ。さらに、各地域ごとに主任コーチを置き、その主任コーチが、地域内の中・高校生、一般選手、教師、一般コーチ、あるいは地域選抜チームの指導に当たることだ。各段階に断層のない一貫性が大切だ。
5)芝生のグラウンドとトレーニング・センターの整備。オリンピックでいろんなところにすばらしい芝生のグラウンドができたが、これを増やすべきだ。国際水準のいいプレーは、それにふさわしい良いグラウンドのみでプレーできるものである。
子どもから大人まで、そして代表選手がトレーニングできる、例えばスポルト・シューレのような施設を整備すること。
◆西ドイツ協会入り
先に紹介したように、クラマーさんは1964年1月1日付けで西ドイツ協会(DFB)に入り、2年先の66年イングランドW杯予選の準備に当たることになった。これは恩師ヘルベルガーの意向だった。
そのヘルベルガーは半年後の64年6月31日に監督から引退した。1936年ベルリン・オリンピック直後、オット・ネルツ監督の後を受けて就任して以来、第二次大戦中を含めて通算28年も監督をやっいたことになる。ネルツは理論家として知られ、彼の書いた教本は、日本語にも訳され各大学の学生が愛読した。
ネルツはベルリン・オリンピックで、ヒトラーの見ている前でノルウエーに0−2でドイツが敗退した責任をとって辞めた。ヘルベルガーは第二次大戦後、かってナチ党員だったとして糾弾されたことがある。クラマーさんによれば「戦時中、監督は強制的にナチ党員にならされた」というが、ヘルベルガーは1954年ワールドカップで、そんな汚名を振り払うかのように、当時最強といわれたハンガリーを破って、西ドイツを優勝に導いた。ドイツ・サッカー界の大御所だった。
当然、ヘルベルガーの後を継ぐ代表監督に誰がなるか、大いに注目された。
★
クラマーさんとの会話(28) 「ベストイレブン」
中条 世界選抜の監督もやられやクラマーさんが、世界のベスト・イレブンを選ぶとしたら、どういう顔触れになりますか。
クラマー マスコミは、しばしばそんな無理な注文をするが不可能に近い。名のあるスターは、攻撃陣に集中している。守備はどうしても手薄になる。世界選抜が、よく地元選抜に負けるのはそのためだ。
中条 なるほど、そうですね。
クラマー 有名選手を挙げれば、ペレ、ミューラー、クライフ、マラドーナ、ジダン、それにジョージ・ベストやルンメニゲも忘れることができない。そんなスターたちから11人を選んでチームを作れば、チームの形をなさない。
中条 守備の人は、どうしても地味ですから目立たない。
クラマー キミがどうしてもというなら、ここに数年前、私たち仲間で選んだドイツのベスト・イレブンがある。何かの参考になるだろう(下図参照)。
|
<ドイツのベスト・イレブン>
最上列(左から)
ルンメニゲ、 ミューラー、ウベ・ゼーラー。
2列目(左から)
オベラート、ワルター、ブライトナー。
3列目 マテウス (センターサークル内)。
バックス(左から)
シュネリンガー、ベッケンバウアー、デルナー(東独出身)。
キーパーは マイヤー。
監督はヘルベルガー(右端)。
|
「クラマー取材ノートから」に対するご意見・ご感想をおよせください。
こちらから。
|