(45)コーチング・スクール
◆ラウス会長のアイディア
ブラジルで世界選抜チームの監督を務めたクラマーさんに、次の大きな仕事が待っていた。FIFA主催のコーチング・スクールを開くことだった。その第1回が69年7月15日から10月18日までの約3カ月間、千葉の検見川東大総合グラウンドで行われた。
FIFAコーチング・スクールの開会式で挨拶するクラマーさん。(提供:クラマー)
|
「国際的にもエポック・メーキングな、大胆な試みだった。発案者は、私をFIFAコーチに任命したサー・スタンレー・ラウス会長だった。アジアのレベルアップのためには、まず優秀な指導者をつくらねばならぬという趣旨でスタートした」
「たしかメキシコ・オリンピックの前あたりだったと思う。ラウス会長が『このアイディアをぜひ成功させたい。それには、キミにやってもらうしかいない。やれるだろうか』と聞いた。私が『喜んでやる』と答えたら『やれると思うなら最後までやり通してほしい。全面的にバックアップするから』と言ってくれた」
「ラウス会長はスクールの期間中、数回検見川にやってきた。最終日には自らの手で、履修者ひとり一人にライセンスを手渡してくれた」
アジアの12カ国から42人が参加した。多くが代表クラスを経験したベテランで、日本からの参加者は12人、のちに日本代表監督を務める加茂周もいた。加茂は「あのスクールで、クラマーさんの真摯な姿に接し、目を開かれた。サッカーの指導を、私の生涯の仕事にしようと決心をした」という。
◆日本協会の協力
クラマーさんは続ける。
「日本サッカー協会が全面的に協力してくれた。もちろん第一の功績者はFIFAのラウス会長だが、野津会長、小野常務理事らの協力なしにはやり通すことはできなかった。日本協会は3000万円近い金を使ったはずだ。私のために家まで用意してくれた。このすばらしい仕事をやったことによって、日本は世界のサッカー界で、国際的な尊敬をかち得た」
「私は直前まで世界のあちこちを回って指導していた。イスラエルから直接東京入りし、準備に入った。準備が大変なことが分かり切っていたので、前年の68年に長沼、岡野、平木、八重樫の4人に期間中3カ月間空けておいてくれと日本協会と約束し、この4人を私の助手として使うことをFIFAに届けた」
「4人は、時には私に代わって実技の指揮をとってくれた。FIFAにその労に報いるべきだと話し、ラウス会長納得の上で、4人にもコーチのライセンスを与えた。日本リーグや大学のチームも、練習試合をするなど、いろんな人に協力を仰いだ」
◆料理、言葉に苦労
「中でも、平木がいちばんのマネージャーだった。彼は数カ月前からこの仕事にかかりきりで、宿舎や食事、グラウンドの整備、同時通訳など準備のすべてをやってくれた。彼の献身的な努力がなかったら、このスクールの成功はなかった」
「八重樫は炊事までも手伝ってくれた。中国人もイスラムの人もいて、4種類の料理を作った。コックさんもよくやってくれた。タイ人は味にうるさい。インド人は牛肉を食べぬ。イスラムは豚を食べぬ。辛い味付けをしなくてはならぬ。運動生理学上のカロリーも考えなくてはならぬ。毎日、八重樫と秘書の女性と私の3人で、メニュー・プランを考えるのが苦労だった」
「英語が判らない人もいて、授業内容をいろんな言葉に訳すのも、たいへんだった。それでレジュメを作って翻訳し配布した。こうすればアイコンタクトしながら話ができる。だが、このレジュメ作りは大仕事だった。この時の貴重な資料は、いまでもFIFAに残っているはずだ。フィールドでは、事前にキーワードをつくって、こういうことをやるよと示して説明しておいたのでスムーズに運んだ」
◆苛酷な日程
それまで、クラマーさんはアジア諸国を回って、ひとつの国にほぼ1カ月単位で滞在し、少年から代表選手までを指導していた。だが、講習会はその場かぎりのものになりがちで、コーチングの限界のような満ち足りないものを感じていた。
ケルンのスポーツ大学には7カ月の指導者育成コースがある。このコースこそ、クラマーさんの恩師ヘルベルガーが考え出し、ドイツ・サッカーの基礎を築いたものだ。クラマーさんにとって、そのような『専任のライセンスを持つコーチを育てるシステムをつくりたい』というのは年来の夢だった。
検見川でのコースはヘルベルガーの考えが下敷きになっていた。端的に言えば、素質ある選手を探し出し、行き届いたコーチをし、すばらしい選手に育てれば、それがやがて強力なチームを作ることになる。それには片手間でなく、専任コーチが必要だ。そして……。
「コーチは、自分のコンディションを整え、模範的なプレーを実際にやって見せなくてはいけない。やって見せてもセオリーを知らなくてはならない。やって見せてセオリーを知っていても、分かりやすく伝達し、指導する方法を知らなくてはならない。これらは選手の年齢やレベルによって変えなければならない」
「コースの内容は、ケルンに決してヒケをとらない」とクラマーさんは自信たっぷりだったが、7カ月のものを3カ月でやる、というのだから、毎日のスケジュールは苛酷と言っていいものだった。
月曜から金曜までは、午前8時から理論。10時から実技。昼休み。昼寝。午後2時から再び実技。5時から理論。土曜日は午後5時から学生や実業団との試合、夕食後、映画会。平日は朝から晩まで、だいたい理論4時間、実技4時間になった。
中には「現役選手でもないのに、なぜこんなに鍛えられなければならないのか」と、不平をいう者もいたが、次第に全身全霊を傾けるクラマーさんの情熱に感化されて行った。
◆大きな遺産残した
それまでの日本サッカーは、かっての名選手やOBが片手間に選手を指導するのが当たり前だった。教え方もマチマチで、監督が変わるたびに選手は面食らうのが常だった。ライセンスを持つ専門職としてのコーチを養成するということだけでなく、コーチング・システムの確立という点で、画期的なものだった。
コーチの使命とは何か、といった精神的なものはもちろん、生理学、心理学、教育学、解剖学、応急措置やマッサージ法などコーチに必要な基本的なことを網羅していた。
さきにFIFAコーチはクラマーさんのためのポストだったと説明したが、FIFAがコーチング・スクールをやるのも、もちろんクラマーさんが世界で初めてだった。しかし、検見川でやったのち、第2回をクアラルンプール(72年1−3月)、第3回をテヘラン(73年10−12月)でやったが、スクールはこの3回で終わってしまった。
「74年にラウスが会長を辞め、私もFIFAコーチを辞めることになった。もしラウスが会長を続けていたら第4回、第5回と続けられたはずだし、続けるべきだった。それだけが心残りだった」
★
クラマーさんとの会話(45) 「体を壊してはならぬ」
中条 クラマーさんは体がご丈夫ですね。
クラマー 病気をしたこともあるよ。だが、コーチが病気になるのは恥だ。だから誰にも話さない。本当のところは今でも話したくない。検見川で1日入院した。
中条 本当ですか。
クラマー 日曜日、平木と八重樫と床屋に行った。店が暑かったせいで、突然倒れた。八重樫が病院に運んでくれたが、血圧が下がって意識が朦朧とした。一晩入院したら元気になった。みなに迷惑をかけずに済んだ。
中条 初めて聞きました。
クラマー シドニーでは足が化膿し高熱で5日間入院した。痛むのを我慢してクアラルンプールの第2回スクールをやった。直後ミユンヘンで再手術した。
中条 そうなんですか。
クラマー 実は、私の腸は切り取って50センチほど短いんだよ。韓国の監督の時、腸から大量出血した。ドイツで手術し7日間入院した。多分ストレスが原因だろうということだった。選手を指導する人間は病気になってはならない。これが私の持論であり信念だが、時々失敗する。だが、回復は普通の人より早いようだよ。
「クラマー取材ノートから」に対するご意見・ご感想をおよせください。
こちらから。
|