(42)メキシコの花が咲く(下)
◆笑いがこみ上げる得点
アステカ・スタジアムで、メキシコとの3位決定戦が始まった。
日本は立ち上がりから押されぎみだったが、じっくり守ってカウンターを狙っていた。17分すばらしい先制点をあげた。釜本が左サイドの杉山にパス、その杉山が中央に走り込んだ釜本にピンポイントのパス。胸でボールをとらえた釜本が左足で、キーパーの左を抜いた。いまでも、メキシコ・オリンピックといえば、テレビで紹介される、おなじみの胸のすくような得点だった。
釜本−杉山コンビの、このパターンは、クラマーさんが2人が音をあげるまで、何百回も練習させたものだった。それが成功したので、観客席にいたクラマーさんは「思わずニヤリと会心の笑みがこみ上げた」
「とくに杉山は、どれだけ厳しい練習をやらせたかわからない。夕方、ほかの選手が引き上げた後にも特訓したこともある。本人が『もうサッカーをやめたい』とこぼすほどだった。磨きのかかった彼のドリブルの速さは、国際クラスに成長していた」
釜本はいう。「クラマーさんの指示は、杉山がドリブルしやすいように、彼の前の左のオープンスペースを常に空けておくことだった。僕が相手ゴールに向かう時は、左方向でなく、いつも右サイドへ走って杉山からのパスを待った」
クラマーさんは付け加える。「成果は、ただの1回かもしれない。だが、その1回の背後にある努力の積み重ねこそ大切なのだ。それがサッカーのトレーニングというものだ」
◆守備を楽しむ
39分、再び杉山が左サイドから持ち込んで釜本に低いパス。釜本がミドルシュートを決めた。これで前半2−0。
メキシコ五輪でPKを止めたキーパー横山(左)。右は平木コーチ。
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後半始まってすぐ、日本はPKをとられてしまった。キーパー横山が左に飛んで防いだ。横山はメキシコのキッカーが、キーパーの左側に蹴るくせがあることを、それまでのメキシコの試合を観察して見抜いていた。この冷静さが日本を救った。
「前半の英雄は2点を決めた釜本。後半の英雄はキーパー、ケンゾー・ヨコヤマだ。これが決定的な瞬間だった。このPKが、もし入っていたら1点差。その先、どうなったか分からない」
得点がとれぬメキシコに、アステカの観客はいらいらし、怒号を浴びせ、椅子に敷くシートを投げ始めた。最後は手拍子で「ハポン、ハポン」と日本を応援する始末。クラマーさんは続ける。
「日本選手は学生選手みたいに動きまわった。宮本輝、渡辺と、いつも攻撃的な連中も下がって、みんな全力で守った。残り30分から40分間、プロのメキシコにフリーパスを1本も通させなかった」
「小城らは『よっしゃ』とばかり守備を楽しんでいた。ドイツにも腕まくりして『よっしゃ行くぞ』とうれしそうに守るディフェンスの選手がいる。小城らは面白がって守っていたのではないか」
ここで、突如クラマーさんから戦時中の話が出た。
「イタリア戦線で、こんな経験がある。相手に攻められても『絶対に弾に当たらない』という確信のもとに、相手の攻撃を楽しんでいる時があった。ローマの南で、6時間も連続して爆撃されたが、『当たってたまるものか』とばかり爆撃を楽しんでいた。メキシコでの日本チームは、それに似ていた」
◆「あなたは大和魂を見た」
試合がすんでクラマーさんは、急いで選手村に駆けつけた。
「日本の選手たちは持っているものを心底からすべてを出し尽くしていた。すべての選手が、部屋でぶっ倒れていた。普通は、試合後一人や二人が脱水症状を呈していたり、体力を消耗し切って倒れているシーンにお目にかかることがある。だが、ここでは全員がへたっている。私はこれまでいろんな試合を見て来たが、あそこまでトコトンやった男たちを見たことない」
「どこからか『あなたは、いま真の大和魂を見ているのですよ』という声が聞こえたような気がした」
「まさに空前絶後のスポーツの至福の瞬間だった。ジャーナリストやカメラマンをシャットアウトしていたが、私はカメラマンを招き入れて、あの時の日本選手たちを写しておけばよかったと何度思ったことか。それほどの感激的なシーンだった」
恩師ヘルベルガーからお祝いの電報が届いた。それまでドイツはオリンピックでメダルを獲ったことがない。日本に先んじられたわけだが、それに引っかけて、電報に「おお、これはドイツのメダル第1号だ」とあった。この電報を野津、長沼、岡野に見せた。みんな心の底から快く笑った。
「お前、日本でコーチをやってよかったな」と、これまたヘルベルガーの声が聞こえるようだった。
◆謙虚さを忘れまい
「当時、私が接した日本選手個々には、それぞれ深い思い出がある。全部を語り尽くせないのは残念だ。小城、釜本、杉山、森、宮本輝の5人は、間違いなく国際レベルだった。鎌田、片山は頭が良く、先を読んで、いいポジショニングを見せた。身体能力の高い宮本征と小柄な山口は動き回って、鋭いタックルを見せた。渡辺、松本の前への動きは鋭かった」
「ここに銅メダルを獲った選手たちのサインの寄せ書きがある。これは、私が日本から勲章をもらった時に、みんなが書いてくれたものだ。東京オリンピックの後にもらった太刀とともに、大切に保管している」
35歳の八重樫茂生主将は1956年メルボルン・オリンピックに出場して以来、中心選手として、まだ日本が弱かった時代から代表チームを引っ張ってきた。10数年間、日本代表のほとんどの試合に出てきた。
その八重樫は、メキシコでは第1戦のナイジェリアとの後半に負傷して、第2戦以後試合に出れなくなった。裏方に回ってもっぱらみんなのユニフォームの洗濯係を黙々と勤めた。八重樫は、若いころを振り返ってこう語る。
「東京オリンピック前に、クラマーさんが来たころ、古い先輩たちからベルリン・オリンピックでスウェーデンに勝った自慢話をどれだけ聞かされたことか。オレたちはこうだった。お前らはだらしない、という風な言葉が、どれだけわれわれを傷つけ、心の負担になったことか」
「銅メダルを獲った。だが、自分たちは、後世の人たちに、このことを自慢するまい。自慢して若い選手に負担をかけるようなことは絶対にしたくない。みんな謙虚さを忘れないようにしよう。と、そんなことを話し合った」
東京オリンピックの前、ベルリンに参加した一部の人から、「なぜ外人コーチに教えを請わなくてはならないのか」と、クラマーさんを排斥する声が出たことがある。八重樫は、その経緯を覚えていた。
「謙虚さを忘れまい」は、クラマーさんを絶対的な存在として尊敬する八重樫の率直な気持ちだったに違いない。
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クラマーさんとの会話(42) 「欧州王者よりうれしい」
中条 1976年、クラマーさんはバイエルン・ミユンヘンの監督として、サンテチエンヌを破ってヨーロッパチャンピオン・クラブカップ(94年に、いまのUEFAチャンピオンズリーグと改称)で優勝されました。その時の記者会見で「今日の勝利もうれしいが、68年にメキシコで日本が銅メダルを獲った時のほうが、もっとうれしい」と、おっしゃたそうですが、本当ですか。
クラマー 本当だ。いまでも、いろんなところで、ちょくちょく、そう言っている。
中条 エッ、やっぱり本当ですか。
クラマー 当時のバイエルン・ミユンヘンは優勝する力を持っていた。みんな期待していたし、優勝して当然だった。だが、メキシコで日本がメダルを獲るとは、誰も思っていなかった。
中条 クラマーさんも、思っていなかった?
クラマー 世界中、誰も思っていなかったのではないか。だが、フランスに勝ってから期待も高まったし、正直ハンガリーに勝ちたかった。日本チームは学生や会社員でアマチュアだった。そんなチームが心を一つにして戦った。だから喜びも大きいし、誇らしいことだ。
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